DV 被害事件への取組

 少なからぬ偶然(或いは「ご縁」)と私自身の性向(「弱い者いじめ」を放っておけない性分)が重なって、DV被害事件が得意分野として定着しつつあります。ある女性問題を扱う公共機関の仕事をするようになったこともDV事案との縁を深めたようです。弁護士会で実施する弁護士や修習生向けの研修で講師を務めることも増えてきました。特に、最近、複数のDV事案を受任し、この種の事件の難しさと苦労を実感しています。
 DVを私なりに定義づけると、「親密な(夫婦や恋人など)関係における男性から女性に対して反復、継続的に行われる暴力」ということになります。誤解を恐れず言いますが、暴力性自体は潜在的に人の(特に男性?)属性としてあるのではないか、と思います。もちろん人には本質的属性としての知性・理性が備わっていますから一般的な男性にはそのような暴力は無縁です。弁護士である私が「取り組む」対象には、夫婦や恋人同士での「いさかい(例えば、夫婦喧嘩)」で偶発的に生じる物理的な暴力は含まれません(「暴力」自体が持つ問題性は当然ありますが、「暴力」一般の中でのDVのくくりには入らないと言う意味です)。戦前日本の下町で見られた古典的な夫婦喧嘩の一シーン、隣の家から夫婦が物を投げ合ったり、取っ組み合ったりする物音が聞こえてくるという場面(昔、ドラマや映画で見た記憶があります)のそれは私的には「DV」ではありません(あくまでも「仲のいい夫婦」ですから)。最近ヒットした韓国映画の「猟奇的な彼女」がチャ・テヒョンにする暴力も対象外です(映画ではこの「暴力」性が彼女の魅力として描かれています~どちらかというと温和しい日本人は最初は面食らいますが、実は愛情表現だったんですね)。DVは、非対等、「支配」の観念を抜きに語ることはできません。真偽のほどは定かではありませんが、ある裁判官が法廷で、「私だって女房を叩いたことはありますよ」と言ったと聞きます。この裁判官が妻を継続・反復的に叩いていたとは思えませんから、これも対象外(多分?)です(決して胸を張れることとは思えませんが・・・)。でも、DV被害訴訟の困難さを示すエピソードと言えますね(「法の番人」ですら「伝統的意識」構造に囚われていることを示唆しています)。
 暴力団関係者でも精神異常者でもない夫、元夫、内縁夫が、パートナーの女性に対して、監禁状態ではない家庭の中で、ごく普通の家庭生活を送りながら、殴ったり、蹴ったりする「反復・継続的な暴力」が取組の対象です。
 我々がここで取組む「暴力」は、個人的;状況的;偶発的要因によって起きる暴力ではなく、男性優位の社会体制や伝統的意識の後押しを受けて行われる、いわば、「社会構造的問題」としての「暴力」なのです。
 例に出した裁判官を筆頭に、標準的な市民が想像できないような夫婦間の病理現象がDVなのです。DVの加害者、被害者には、一定の共通項が見られます。精神的に未熟で幼児的、母親や妻など女性に甘えや依存性が強い、しかし、外の社会ではある程度の協調性があり、権威には従順。精神的な脆弱性は、家庭内においてのみ顕在化するというのが、DV夫の共通の性格です。一方、妻は、特に気が弱いとか、精神的な問題性があるわけでなく、むしろ、優しい母性的な性格が特徴的です。いずれにせよ、反復・継続的な暴力による恐怖が核心ですが、様々な事情が重なって支配、被支配関係のなかで妻の人格性は無視され、侵害され続くことになります。特に、DVの加害者は異常または特別な人でなく、むしろ対外的には「いい人」「いい旦那さん」「いいお父さん」と見られているので、被害者の声が身近な関係では届くことがなく、DVは永続的に続くという現実があります。
 DV事案の特効薬は、被害者自身の「目覚め」です。「家庭」「夫婦」という枠組みの中に埋没してしまっていた人としての「尊厳」に気づくことこそが解決への第一歩に他なりません。社会から大きく逸脱した「病的な家庭」から出て、人を人として尊重してくれる外の社会から大きな視野で自分自身と夫、そして夫婦関係のあり方を見直すことが必要です。そうすれば、救済の途は自ずから開けてきます。 DVは、経済的、社会的、肉体的に優越的地位にある男性が加害者という図式は、否定できません。その意味では加害者側の範疇に属する男性である私がDV事案に取り組むことは、私に課せられた一つの役割ではないかと思っています。
 家庭で暴力を受けて悩んでいる人は、是非ともDV問題に積極的に取り組んでいる群馬、高崎の井坂法律事務所に相談してみてください。