弁護士とカウンセリング・心理療法

 最近、私が高い関心をもっていることについて、新しいブログを書きます。「カウンセリング」に最も近い言葉は、「心理療法」だと思いますので、ここでは両者をほぼ同じ意味で使います。
 「弁護士」と一般的な意味での「カウンセリング」は、あまり見ない組み合わせだと思います。しかし、私は、経験的にこの2つは切っても切れない関係にあると直感しています。最初に言ってしまいますが、最近、私は、弁護士という職業には、臨床心理学の素養が宿命的に必要であり、この仕事をする以上は、少なくともこの分野に関心を持ち、勉強をする姿勢を持たねばならないと思うようになりました。 特に、司法改革の結果、以前よりは「苦労」をせずに弁護士資格が取得できる昨今では特にそう言えます。苦労や痛みの経験は、弁護士・カウンセラー共通の必須条件であり、多ければ多いほど、深ければ深いほどよいと言えるからです。

 「カウンセリング」を多くの専門家が色んな定義づけをしています。例を挙げます。
 ・専門的訓練を受けたカウンセラーがクライエントとのコミュニケーションを通  じてその心理的変容を促す過程を言う
 ・クライエントが主体的に問題を解決するために、場や拠り所を提供すること
 ・クライエントに対して、主として心理的な接近法によって、可能な限りその全  存在に対する配慮を持ちつつ、そのクライエントが人生の過程を発展的に歩む  のを援助すること

 「促す過程」「提供」「援助」と控えめな点が共通項で、実はこれが非常に大切です。
 最後の定義は、わが国におけるユング研究の第1人者であり、日本最初のユング派精神分析家である河合隼雄氏の著作(「心理療法序説」)によるもので、最も深淵で英知に満ちています。長年にわたって文化庁長官を勤めた人で覚えている人もいると思います。

 くよくよと悩んだり、落ち込んだりしている時に、たまたま誰かに聞いて貰ったらスッキリしたり、なんか悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなったりして、気持ちが楽になることがありますが、正に、これがカウンセリングの原型で、知らないうちに友達や親子、夫婦などでして貰ったり、してやったりしています。これをプロフェッションとして行うのが「カウンセラー」です。カウンセリングというのは、先の定義でも分かるように「指導」や「教示」と言う言葉とは対極にある、何をしているかはっきりしないような、そこはかとないもので、簡単そうで、実は非常に難しい専門的な知識と経験・素養、さらには広く深い教養の裏打ちがあってこそなしうるものなのです。
 カウンセラーのクライエントは、心に悩みや問題を抱えた人々で、その中には躁うつ病、統合失調症、アルコールや過食など依存症などの病理的診断を受けている人に限らず、いわゆる正常な人も含み、つまり、子どもから老人まで男女を問わず全ての人です。逆に、弁護士のクライエントが、過食症プラス窃盗癖による窃盗犯だったり、DVによるトラウマを持った妻だったりします。要するに、弁護士とカウンセラーのクライエントは一致する可能性が高いのです。
 弁護士の相談者や依頼者がどこかでカウンセラーのそれと区分されて、相談に訪れる訳ではありません。例えば、交通事故やDVによって心的外傷を受けている人など、示談や裁判などを弁護士が依頼される場合に、依頼者が主体的な意思決定をする前提として、カウンセリングが必要な場合があります。あるカウンセリングの入門書で、カウンセリングルームに訪れるクライエントの6割か7割は法律問題であることが予想されるので弁護士を呼んでおくべきだと書かれています。これを弁護士の方から見ると、「法律事務所にはカウンセラーを呼んでおく必要がある」となりますが、それは非現実的ですし、もしできることなら「弁護士自らがカウンセラーになりなさい」というのが私の意見です。
 弁護士が依頼された仕事を進めていく過程で、知らず知らずカウンセリングを並行して行っているという状況も生じます。コミュニケーションを維持する上で、カウンセリング的な対応を余儀なくされるのです。相談者や依頼者がカウンセリングを必要としていることに弁護士があまりに無自覚だと、弁護士が加害者になって二次被害を発生させる危険も出てきます。  
 私が、経験的に臨床心理学の素養が必要だと徐々に感じるようになったのはこれが理由です。今では、「弁護士は同時にカウンセラーでなければならない」と心底思っています(勿論、表で大きな声では言いません、こっそりブログで書いていますが)。
 試しに、ネットで「カウンセラー・カウンセリング」を検索してみたら、とんでもない記事がありました。1番目は、『夫婦修復サロン』を名乗る記事です。
 「本当は離婚なんてしたくない...あなたの心と行動で『最愛の夫婦』に再生します」という表紙に続いて
 「弁護士には相談しないほうがいい!?」という太字の見出しに続けてこんなことが書いてあります。
 「離婚にわずかでも迷いのある方には、弁護士への相談をオススメしません。」
 「(弁護士の役割とは何でしょうか?)特に夫婦の問題においては、どれだけ『有利』に『離婚』をするかという点において専門性を発揮します。『離婚を決めた人』に対して大きな力を発揮することができるのです。離婚を決めた人にとって法律は有力な『手段』となります。そう、弁護士に相談する人は、『離婚を決めた人』でなければならないのです」
 「離婚へのわずかな迷い」が法律的なアドバイスによって消失する可能性はないのでしょうか?
 弁護士の役割(離婚問題における)は、いつから『有利な』離婚をすることだけになったのでしょうか?
 いったい『有利に』離婚するというのはどういう意味でしょうか?
 「手段である法律で」社会的なトラブルが解決し、その結果「心の問題」が解決することはむしろ多いと言えるのでは?
 私の経験では、離婚訴訟が和解等で解決して、『有利・不利』とは違った次元で依頼者が前向きに人生を歩み始めた例が沢山あります。このカウンセラー氏(どんな資格保有者か知りませんが)は、一体何をもって『有利・不利』と言っているのでしょうか、単に財産や金銭的なことだけでしょうか?
 離婚の問題で一番大切な『心』の問題はどうなっているのでしょうか?この方のお考えでは、離婚を決めた途端に、『心』の問題はなくなって、『心』の問題についての『非専門家』である弁護士の仕事になるようです。
 また、カウンセラー氏は、「人間関係の問題は、論理的に解決できるものではありません。手段である『法律』で心の問題を解決することはできないのです」「法律が『目的』であってはなりません」とも言っています。
 多くの人が抱える「心の問題」の殆どは、何らかの人間関係の問題(トラブル)が切っ掛けになっています。この「人間関係の問題」において「論理的思考」が解決の糸口になる可能性は大いにあります。また、『法律』は、人間関係や社会関係の問題を解決する最終手段として機能するものですから、この最終手段を使わずすめばその方が良いのは当然ですが、この最終手段(具体的には、裁判のことです)が人間関係・社会関係を解決する糸口となって、それが『心』の問題を解決していく突破口となった例を私自身多く経験しています。
 法律家において『法律』が『目的』となることは論理的にあり得ません。『素人』が法律を振り回すと「目的化」する危険はありますが。
 このカウンセラーは、『心』の問題をいったいどうやって解決しようというのでしょうか。極論するならば、『心の問題を解決する専門家』は存在しないと思います。弁護士は当然として、精神科医も、臨床心理士ですら、『心の問題を解決する専門家』という表現に当てはまりません。そんな人が現れたら、「教祖」になって大変です。河合隼雄氏は、カウンセラーが『心の問題を解決する専門家』と慢心し、勘違いすることの危険性を強調しています。
 もう一つ、「弁護士・カウンセラー利用法」という題名のすごい記事を見つけました。
 「弁護士の先生は...相談者さまの心の迷いやケア等は専門外となります」
 「離婚を悩み迷っている方→カウンセラー、離婚が決まった方→弁護士、離婚後の心のケアー→カウンセラー」と大変分かりやすい分類をしていますが、中身はすごいことになっています。
 「弁護士は心の迷いやケア等は専門外」だとすると、いったい弁護士はどんな仕事をしているのか? いやはや大変な難問です。
 このカウンセラーにかかると、「心のケアー」も、ネイルサロンの「ネイルのケアー」も同列で、どちらも「専門外」になるようです。
 このカウンセラーたちは、クライエントの「悩み」を、「心の悩み」と「社会的、法律的、金銭的な悩み」とに、即座に見分けることができるようです。
 弁護士へに対する著しい「偏見」は放っておくとしても、「弁護士、裁判所、法律」といった様々な社会システムに対する「イメージ」の幼稚さ、貧困さにびっくりしてしまいます。「心」の問題が「心」の問題だけで完結するのは未だ「社会」が心に根付いていない乳幼児の世界だけです(泣き叫ぶ乳児が母に抱かれた途端に笑うのがそれ)。
 一人目のカウンセラーは、「夫婦関係の修復へと『導く』ことを専門としています」と恐ろしいことを言っています。トラウマを負ったDV被害者も『無理矢理に』修復へと導かれることは必至です(自覚のないDV被害者は多いので)。心の傷を負ったクライアントが近づかないことを祈るばかりです。
 この人はカウンセラーの本分を大きく取り違えていることを自ら表明しています。カウンセラーが夫婦関係を「導く」こと自体が不遜極まりない余計なことですし、大きな間違いです(現実に、或いは、論理的に「導く」ことはできませんから、「導こうとする行為」が問題です)。このような『導き』を行うのは、正に「教祖」「導師」です。先の定義がいずれも、謙虚・控えめな感じがするのはカウンセラーが「教祖」や「導師」にならぬための自らの「戒め」が込められています。
 河合隼雄氏は、「治療者(カウンセラー)が自分がよって立つ理論にクライエントを合わせようとして、『解釈』を押し付けたり、不当な要求をしたりしてクライエントの本来的な生き方を歪ませないようとしていないかを常に反省する必要がある」と言っています(河合隼雄著「心理療法序説」)。
 私が多く手がけた離婚事件の中で珍しい例があります。離婚したいという夫側の依頼で、私が離婚調停を一生懸命進めていたら、突然、「二人で話し合ってもう一度やり直すことになりました」と、結果的に修復させる手助けをしてしまったことがありました。他人が夫婦関係を修復に「導く」ことなどできないことを示す好例です。
ネットでの広告や意見表明は、憲法21条の表現の自由、29条の営業の自由の下で、例えば刑法等の法律や他の重大な利益を害しない限度で、自由にできることが現代社会の妙味です。その意味では、例にあげた記事も許される訳で、記事を出したこと自体には文句を言う筋合いはありませんが、これらの記事はそれぞれの内容が批判にさらされ、耐えて初めて存在できます。これを「表現の自由市場」と言いますが、戦前にはこの「自由市場」がなかったことはご存じの通りです。 
 弁護士の立場から率直に言いますと、例にあげた記事には可能性としての有害性がありますが、間違った記事と正しい記事の選択眼が読者にあることが前提にあるので、例え間違った記事だとしても、それを公表することは許されます。
 「そんな記事をそのまま信じる読者はいないだろう」と言う人もいるでしょうが、人それぞれですし、そもそも、何が正しくて何が間違っているのかがはっきりしません。結局、記事そのものがもつ正しさが読者に正しい選択を導くのだと言えます。「表現の自由市場」は、「表現の自由」が保障されるための理論上の前提ですが、結局は、「タテマエ」でしかありません。この自由市場を前提とした読者の「選択眼」もタテマエで、悪どい広告による被害や名誉毀損的な記事が横行する現実があります。しかし、タテマエどおりに自由で活発な議論をするべきなので、「間違いは間違いだ」と正しいことを言わねばなりません。
 このブログでは、弁護士の職域が侵害されるとか、営業妨害だとかは全くどうでも良くて(全く影響はないと思うので)、やはり、誰かが正しいことを言っておく必要があるだろうと思ったので、敢えて「批判」をしています。どちらの言っていることが「正しい」かは読んだ人が判断すればいいことです。
 深い悩みや心に傷を負った人に関わる仕事には、それ相応の覚悟と知識や経験、更に資質が要求されます。例えば、取得が難しい「資格」が最低条件として必要なのはそのためです。因みに、カウンセラーの代表的資格(まだ民間資格ですが間もなく国家資格になりそうです)である臨床心理士の資格取得はかなり難しいと言われていますが当然です。難しくないと困ります。
 発覚せず、誰も問題にしないだけで、カウンセラーと名乗る人から大きな害をそれと知らないで受けているクライエントがいるかも知れません。「プロフェッショナル」を名乗るにはかなり高いハードルを越えていなければならないはずですが...。
 経済的には豊かでそれなりに安定した日本の現状ですが、経済社会や科学技術の発展とは裏腹に個人の「心の問題」が忘れ去られて久しく、見方を変えれば、大変「荒んだ」社会になっていると私自身は感じます。元々、欧米から始まって伝わってきたカウンセリングは、まだまだ日本では重要視されていない感がありますが、もっともっと注目されてしかるべきだと思います。私自身は、カウンセラーの看板を出しているわけではなく、あくまで弁護士の立場からの意見です。このブログは弁護士を中心とした司法の分野において改善の余地が大いにあるという問題提起でもあります。弁護士にこの気持ち、姿勢があるだけで、随分と面談の中身が違ってくることを私自身今実感しています。

もう一つ、また検索していたら、大変興味深い記事がありました。先のカウンセラー氏とは全く次元が違う遙かに知的なものです。どのブログを読んでも一家言をもつ法律家らしい知性が感じられる内容です。元々、匿名なのでセールスの要素は皆無で、エッセイとして読まれるべきものなのでしょう。
 取りあえず、そのまま紹介します。
 「法律相談をリーガルカウンセリングと称してその理念と技法を説かれることが多い。弁護士がカウンセリングの理念と技法を深く弁(わきま)えて実践するならば確かにある種の相談事例で有益である。しかし、それほど事例が多いわけではない。また、生半可で実践するなら有害である。カウンセリングの技法は法律相談でそのまま有用性をもつわけではない。「共感的理解」と称して弁護士が依頼者に対して「頷き」「相づち」「繰り返し」を試みる場面を想像するのはいささかぞっとする風景である」と述べています。そして、その後、私が読んで法律家として頷けることを述べた後、次のように述べます。
 「来談者の人生を敬意をもって傾聴するとき、来談者が語る人生の苦難は、頷きや相づちで応接するには不自然なことが多い。むしろ、重い『沈黙』を強いることの方が多い」「カウンセラーは来談者にひたすら寄り添い、その変容を援助するのが仕事である。しかし、法律専門家たる弁護士は異なる。来談者に寄り添うだけでは社会に対する責任が果たせない」と締めくくっています。 
 この弁護士のブログは、「弁護士とカウンセリング」という私のテーマにとって、大変有益な素材を提供してくれています。私と着眼点自体は共通していて、しかも、結論が逆方向に向いているからです。
この弁護士と私の共通点は、弁護士の業務には、「カウンセリング的」要素が含まれていることの認識です。出発点は同じですが、その後はどんどん離れていきます。
 「カウンセリング技法と理念」の有益性を認めている点は、私とと同じ。しかし、それを「ある種の事例」に限定し、「それほど多いわけではない」と評価した上で、それ以外の事例では有益性を否定しています。ここから私の立場と大きく離れていきます。
 相違点その1,カウンセリング的要素が必要なのは、「ある種の事件」に限られません。弁護士に相談・依頼する状況になっている人に対する弁護活動(刑事・民事・家事)は、みんなそれなりにカウンセリング的な姿勢が必要です。決して「多いわけではな」くありません(ビジネス的な事件のみを扱う弁護士ならば、確かに少なくなるでしょうが)。
 相違点その2,いくら大増員時代とは言え、法律相談で「頷き」「相づち」「繰り返し」だけで臨むような阿呆な弁護士がいるとは思えませんから、ぞっとする必要はありません。
 相違点その3,勿論、弁護士だから、「寄り添う」だけでは仕事になりません。だから、紛争解決という責任を負った弁護士は、カウンセリングを必要とする依頼者にどう臨むかが課題なのです。彼は、「弁護士対カウンセラー」という対立構造で捉えるのに対し、私は、両者を調和的に捉える点が、決定的に異なります。
 一貫したブレない姿勢が印象的なブログですが、一貫しすぎて、何か物足りない、深みに欠ける感じがあります。その一貫した態度も、傍観者的な、或いは、「評論家的」な態度ゆえかも知れません。高見から見過ぎてちゃんと見えていない嫌いがあります(失礼!)。
 「社会に対する責任が果たせない」と言う彼には、「それで、あなたはどうするんですか」と問いたいと思います。そして、老婆心ながら、「社会に対する責任」を負うは弁護士だけではないこと、カウンセラーという専門職に対して敬意をもって欲しいと思います。
私自身は、弁護士として、その先にあるであろう「何か」を模索するつもりです。