医療訴訟~患者側弁護士から

 私が担当した医療過誤訴訟は、必ずしもその件数は多くないのですが、それでも定期的に提起し、ほぼ全てが勝訴的和解で終了しました(一部は不本意な和解で終わりましたが)。現在、二つの事件の提訴を予定しています。その意味では、医療訴訟を私の専門分野の一つに入れても差し支えないと思っています。これらの裁判の経験で思うところが少なからずあったのですが、特に、最近、強く思う経験をしたことから、ブログに加えることにしました。

 医療過誤問題について語ること、さらには、これに取り組むことに一種の「タブー」的なプレッシャーがかかるのはなぜでしょうか。それは多分、明日は我が身となりかねない問題であり、自分自身や家族が重篤な病気に罹ったり怪我を負って入院した場合には、「まな板の鯉」状態になって偶々担当する医師に身を任せる運命にあるという、生身の人間の「宿命」が心の深層にあるからだと思います。自らが患者となる場合は「まな板の鯉」、家族の場合は「人質」です。学校という世間離れした「密室」を取り仕切る義務教育機関の教師と親の関係と大変似ていますね。教師の度を超した質の低下が言われて久しいですが同根の問題です。
 法律上は、医師ないし病院と患者の医療契約が基本で、当然「対等」な関係ですが、これは建前で、私でさえ家族や自分が患者として医師に接すると、条件反射的に平伏してしまいそうになります。この患者側の心裡が頻発する医療過誤に関係があると私は思います。
 同じく先生と呼ばれる専門職である点で弁護士と依頼者の関係と似ていますが、違う点が大いにあります。最も違うのは、医師の場合は怪我や病気を治す仕事で時には命に関わります。勿論、弁護士の場合も命に関わる場面も稀にはありますがそれは極めてレアです。医師が尊敬されるのは充分な理由があります。
このことから論理必然的に、我々弁護士のミスは金(つまり、賠償)で何とかなる場合が多い(勿論、よく考えるとそうではない場合も少なくありませんが)のに対して、医師の場合は取り返しがつかないという大きな違いが出てきます。
 勿論、神にあらざる医師にも人間である以上、過ちはあります(私自身も20年以上になる弁護士生活の過程で全く失敗がなかったわけではありません)。しかし、医療訴訟で争われるケースはそのようなミスではなく、恰も自分が「神様」であると誤解しているとしか思えないようなケースが散見します。私が修習生の時に経験した事案は、出産間近の産婦が入院中の産科医院で、担当医がテレビでプロ野球を観戦していた際に(どうしても見逃せなかったそうです)起きた医療事故で死亡しました。「慣れ」のせいと言ってしまえばそれまでですが、この類いの事故が多いのは事実です。私自身が担当したものでは、麻酔薬の過剰投与、手術時のガーゼの置き忘れ等、担当医の気の緩みとしか言えない過誤が目立ちます。
 国際的機構である赤十字社が主催する各地の病院で医療ミスが頻発してることがネット等で分かります。私が属している群馬医療弁護団でも頻繁に話題に上る病院です。ある患者の親族から、「命を助けてやってるんだから、足の1本や2本くらいで文句を言うな」という趣旨の言葉を担当医師から投げられ怒りで言葉が出なかった、という話を聞きました。こんな分かりやすい話はありません。高度救命センターのような「最前線」かつ「密室」ならではのエピソードでリアリティがあります。この医師はとんでもない思い違いをしています。仮に当の患者がその病院の担当医の措置で生命の瀬戸際にいた患者の命が救われたとしましょう。患者の命を救ったのはその医師でしょうか。そう見えますが実はそうではありません。その場面で目の前にいる医師に親族が手を合わせるのは素直な気持ちでとても自然なことです。だからと言って、その医師が自分が救ったと思ってしまうのは非常に愚かなことです。その患者の命を救ったのは、パスツールやコッホ等の医学の始祖たちの業績を礎とする近代医学とそれを現実に実践する医療施設です。さらにそれを現場で担当するのが医師、看護師等のスタッフです。医師がヒエラルヒーの頂上で君臨しているように見えますがリーダーに過ぎません。そして、彼らが拠り所とする知識は大学等で学んだだけです。もっともっと勉強を続けなければならない身のはずで「エヘン!」と威張っている暇はないはずです。命を救わなければならない場面でそれをするのは給料を貰って仕事をしている以上、当然です。自慢することではありません(足の1本も同じ話です)。もし、救うことができる場面で救うことができなければ、謝罪し、賠償するのもまた当然です。ところが、足を治したり、救命したら、感謝されて当然で、ミスをして足を無くし、死亡させても、謝罪もせず、賠償もしないというのが、医療過誤問題の現場では殆ど常識です。そもそも、責任自体を認めず、医師会又は保険会社の弁護士を通じてとことん争うのが普通で、一審の終盤戦か、控訴審でやっと和解するか(これが多い)、判決まで行くかのいずれかです。ミスが明らかならこれを潔く認めて自ら責任をとるという姿勢がなければ医療ミスは防止することはできないのに、医療施設側は追い詰められるまでは躍起になって戦う姿勢を貫くのは、嘆かわしいことです。
 確かに、医療の現場は過酷で、特に、患者が救急車で運ばれてくる救急センターのような医療施設は正に「戦場」で、そのような病院はあたかも「野戦病院」的様相を呈します。そのような過酷な医療現場で24時間患者に直接接している看護師を代表とするスタッフには、お世辞ではなく、「ナイチンゲール」の精神を感じます。そんな精神をもっていないと勤まらない仕事なんですね。生命の危険に瀕してその命を委ねる患者自身や家族にとって担当医が「神様」に見えるのは当然です。 しかし、医師は自らを「神様」と勘違いしてはなりません。そんなことは思っていないと言うでしょうが、患者側を見下せば、人間である患者から見て医師は「神」になってしまいます。確かに、何百、何千という患者を診ざるを得ない医師や病院は、一々患者の「尊厳」なんか意識していられないかも知れません。しかも、「戦場」で大勢の患者を過酷な条件下で診療する医師の勤務条件は想像を絶して過酷かも知れません。しかし、そのような職業人である医師は、それ故にこ強い尊敬を受け、それに相応しい報酬も受けているはずです。もし、そのような仕事が余りに過酷で大変だというなら辞めれば宜しい。他にもっと楽して高収入を得られる仕事は沢山あります。それでも辞めないでその仕事に携わるのなら、「シュバイツアー」にならんとすべきです。シュバイツアーの精神を目指すべきです。それも嫌だというなら、やっぱり医者を辞めて頂くしかないと私は思っています。あぐらをかき居座るのは社会悪です。なぜなら、その精神の欠如が、傲慢に繋がり、さらには医療ミスに繋がるからです。赤十字の創立者アンリデユナンの高邁な精神が現代日本ではあらぬ方向にそれてしまっているのをデユナン本人はどう思うでしょうか。
 長年にわたって深く根付いてしまった傲慢な姿勢はもはや医師一人のレベルに止まりません。本来、人間一人に対する評価である「傲慢」が構造化し、組織全体に向けられている事態が現代医療の重大な問題だと思います。仮に、その構造の中で良心的な一人の医師が問題性に気付いたとしましょう。恐らく、その良心的な医師は、自らも良心を捨てて「構造」に魂を売ってしまってそれに同化するか、その組織を辞めて構造から離脱すか、のいずれかの決断を迫られます。もし、ぐずぐずと悩んでいるとその職場でいじめられてうつ病になってしまうからです。医療ミス「構造化」の原因はここであります。その結果として、なぜか同じ病院でミスが続くという現象が生じます。人々には「偶々(たまたま)」と見えるでしょうし、「おかしいな」といいう印象を残して終わりますが、これがこの現象、つまり、「構造的ミス」の客観的な解析です。
 前に、「足の1本や2本くらい」と言いましたが、この表現は「命の一つや二つくらい」に繋がります。小さな傷が命の危険に繋がることは医師なら知っているはずです。私自身、ある病院の理事長(医師)から似たこと(「死んでもしょうが無い」)を言われたことがあります。院内感染で数人が死亡した事故でしたが、不可抗力的要素が強く、受任には至りませんでしたが、だからと言ってそういうことを言ってはいけないのが医師だと思います(そう思えないのならやはり即刻医者を辞めるべきです)。
 患者側で医療訴訟を受任する弁護士は多くありません。その理由の一つは、医療の専門分野で門外漢である弁護士が専門家である医師の集団と戦うことが非常に難しいことです(相手に弁護士がつかなければまだいいのですが、残念ながら、医師側専門の弁護士が当然つきます)。当然、勝訴は難しく、一般の民事事件に比べて勝訴率が格段に低いというデータがあります。
 もう一つは、やはり、いずれは自分や家族の身を任せなければならない生身の人間である弁護士が地元の病院を相手に戦うのは二の足を踏むのが当然の心裡で、わざわざやりたくないという気持ちです。
 しかし、我々、医療訴訟に専門的に携わっている弁護士は、医師の全てを敵に回しているのではありません。医療訴訟を提起して維持するには、協力医の存在が不可欠です。私が勝利的に訴訟を終えられたのは、必ず、患者側に立って意見を述べてくれた高い能力を持った人格高潔な医師がいてくれたからです(勿論、群馬県以外の遠方の協力医です)。冒頭で自らの高い勝訴的和解を述べましたが、それには理由があります。知人の優れた外科医が予めチェックしてくれているので、訴訟を維持できそうにない事案はその段階で振り落としているからです。このような良心的な医師たちが日本の医療のレベルを支えてくれています。身近にもそんな医師が少なからずいらっしゃいますし、そのような医師は日本にも大勢いると思います。だから、悲観ばかりすることはありません。このブログもそんな期待と祈りを込めて書いています。