「自由の森学園で講義実施」~続編

 自森のネット情報を検索していくと,例の出版物「自森が崩壊する日」を初めとして,様々な記事が出てくる。「群盲象を撫でる」のことわざのように,恐らく百花繚乱というに相応しい賛否両論の記事があるようだ。初めのブログで書いたとおり,自森に「光」と「影」の両方があることは間違いなく,それについて私は議論するつもりはない。しかし,自森に厳然と存在し,存在してきたであろう「いじめ」と「不登校」の問題については,陽を受ける万物に必然的にある「光」と「影」ということでは説明は付かないし,それで済ますこことは許されない。例えば,授業中に外でたむろしている生徒がいて,しかも,タバコを吸っているとか,学校説明会に参加していた父親(若い)に不良が因縁を付けた(「お前この学校に入るのか」と)とかのエピソードは,正に,自森の理念「反点数競争主義」や「脱管理主義」の延長線上で避けられない話であり,「光と影(もう一括りにしましょ)」に解消されてもいいかもしれない。
 自森では,理念の実践として授業を受けるよう「強制」しないことになっているようだ(そりゃあ,一部の生徒が外でたむろってるのは当然)。同じように生徒が堂々と喫煙してるのを見ても,吸わないように「強制」しない(えーっ!)。この辺から,さすがにタテマエが大嫌いな弁護士にも違和感が...。せめて,教師や保護者の前では吸わないことを「強制」してほしい(というか,実際はお願いするんだろうね)と思うのは私だけ?とまあ,ここまでは許容範囲として問題は次の話。 「脱管理」理念のもと,「管理をしない」学級で不良的またはヤンキー的な(「的」があることに注意)生徒から何らかの圧力(推進法は「影響」と言ってます)を受けて学校に行かなくなってる(いや,行けなくなってるんです)生徒がいるという事実は,「光」がある以上,「影」があるのはしょうがない,で済ますわけにはいかない。仮に,そんな不良的な生徒がいるとしたら,彼に言いたい。「おい,ふざけんなよ。お前が憂さ晴らしにいたぶった生徒は本当は自森に行きたかったんだぞ。不良を気取ってるお前が学校に来んなよ!」と。そして,「外で悪さしろよ,自己責任でな!」と。
 ところで自森には,「不良的生徒」「ヤンキー的生徒」はいても,一般的な意味での「不良」「ヤンキー」はいないと私は思う。なぜなら,不良であれ,ヤンキーであれ,かれらは世間や学校が彼らにはめようとする「枠」から「圧」を受けて(つまり「管理」),それに反抗し,その「枠」からの逸脱を誇示するところにアイデンテイテイーがあるはずなので,自森にはその「枠」がない以上,「不良」「ヤンキー」は観念できないから(学園のアウトローの証しである喫煙が公認されてしまっては「不良」を表現することは非常に難しく,それでも逸脱を表現しようとすれば「犯罪」でも犯すしかなくなってしまう。

 一般的に不良は不良なりに,ひねくれて親や世間にすねていても,潔く自由な行動の責任を負う姿勢があるけれども,自森では,先の不良「的」生徒は「脱管理」「自由」の理念のもとで責任を問われずに学校生活をエンジョイできる理屈だ(オイオイ,そんな不良いるかよ!それじゃ,まるで,スポーツジムで汗を流すヤクザだろう)。
 関西出身の私は,吉本的ブラックジョークに乗せて本音を語っているが,これは法律家としての法意識の表れであり,弁護士である私の信念の発露でもある。これを読んだある生徒から,「私のクラスにはそんな生徒はいません」と抗議があるかも知れない。もちろん,私は「正々堂々喫煙生徒」や「若い父親を新入生と誤ってヤキを入れようとする生徒」などはマンガ的で目くじらを立てる気はない。もし,陰で,或いは,人前で,恐喝したり,そんなはっきりしたことでなく,恐い目で脅すだけでも十分だが,とにかく不良的,ヤンキー的な態度でおとなしい生徒を圧迫して学校に来られなくなっている事実があったらと仮定しているので,いないならいないで結構なことだと思う(それに女子には分からないかも知れない)。
 不良的・ヤンキー的生徒がいるかどうかは大事ではない(実際,いいやつもいると思う)。彼らがいい子ならそれでいいし,そうでなくても,「不良的・ヤンキー的」生徒をそうでない生徒と区別することは大変難しいことでもある(それをしようとすると「アカ狩り」みたくなっちゃう)。

 不登校状態の生徒がいるかどうかを確認すればよい,簡単。自森経営者(「管理」しないなら,「経営」をしているはずなので)は言うかも知れない。「この学校は自由を大切にしているので,学校に来ることを強制しないんですよ」と。ふざけるのはいい加減にした方よろしい。どこの生徒が,わざわざ,山の中の学校に高いお金を払って入学してるのに,「学校に行かない自由」を喜び,満喫するというのか?
 これは,「自由」とか,「管理」などという言葉の範疇に属する問題ではない。「自由」や「脱管理」という題目を放置,放任の大義名分にしているだけであり,生徒や父母もまた,自らがこれらを理念とする自森を選んだが故に,この不条理,不公平な状況を問題化することができないというジレンマに陥っているのだと私は思う。それ故に,こうした重大かつ深刻な問題が社会問題化(或いは,法的問題化)することなく,延々と悪循環を続けてきたのだと思う。

 さて,私は,法律家であり,現実の「いじめ」「不登校」を法的紛争事件として取り扱うことをプロフェッションとする者である。従って,言いたいことを書き連ねることで終わらない。
 いじめ・不登校という社会的事件が解決しないかぎり私の専門フィールドでの展開,職業的実践は避けることはできない。この解決には,自森の「改革」が不可欠である。それも,外からでなく内からの改革である。そして,この改革は,自森の創立理念である「点数競争主義」「個性重視」そのものを改変したり,廃止することを意味しない,これらをなくしては自森が自森でなくなってしまい,存在意義がなくなるから,それでは元も子もない。また,「自由」を引っ込めてしまったら,ただの「森」になってしまうし,逆に「管理」主義を導入したら普通の学校になってしまう。
 自森が今なすべきことは,「いじめ」とその必然的結果である「不登校」状況を改善し防止することである。それができれば,改革は自動的に実現する。もちろん,今までの「自由」と「脱管理」とは中身が変わるのは当然である。そもそも,先にマンガ的な例をあげたが,「脱」管理は,「非」「不」管理とは違うという簡単なことを自森の理事,校長ら幹部は分かってない。いや,承知の上で最も効率的な(本当は「安易な」)管理手段として採用してきたのだろう。そう,もっとも手っ取り早い「管理」方法が自由の名のもとでの放任だった。
 そう考えてくると,ブログで取り上げた「近づかない・触れない・話さない」のルールは,「おとなしくない子」が「おとなしい子」に圧力を加えたときに,それが「いじめ」と認知されることを防止する非常に合理的な方法であると自森管理者は考えたのであろう。言ってみれば,それが自森の伝統的なルールであり,だから,担任教師は,それを生徒に指示することに躊躇なく,罪の意識を全く持たないことの辻褄が合う。そして,校長が「うちの学校ではいつもそのように指示している」と堂々と話すことの辻褄が合う(かれの態度は,先代校長の代からそうであることを窺わせる)。また,欠席を重ねる我が息子を案じて学校に毎日連絡する母親に対する冷淡な事務職員の対応と校長の「あーそうですか,長期戦になりそうですね」という反応もまた辻褄が合う。そりゃそうでしょうよ,自森自慢の「自由」を享受しているだけだから,「なに,そんなにムキになってるの?」となるのは当たり前。 次のような自森的の生徒,教師,その保護者による率直な反応があるかもしれない,「何言ってるんですか,自森ではいじめはないし,不登校もありませんよ」と。確かに,自森には,例の「3ないルール」があるので,いじめの初動段階でいじめが止まるシステムがあり,しかも,被害者生徒はすぐに学校に行かなくなるので,一般的な「いじめ」の状況に至らない。恐らく,「おとなしくない生徒」の自由は,この最低限のルールを守ることと引き替えに与えられているのだ(タバコもね)。 そして,一般的な意味での「不登校」も,授業すら出ても出なくてもよいこの学校では,「登校」自体がないようなものだからやはり考えにくい。
 しかし,他の「自由」はともかくとして,学校当局が隠れ蓑にしている「学校に行かない自由」だけは許すことはできない。ごまかしであり,まやかしであり,インチキである。 

 私の問題提起は,自森の長年かけて溜まった膿を全て出して再出発する切っ掛けであり,「崩壊する」と言われ続けてきた自森が本当に崩壊する前に,再生するチャンスであると確信する。確かに,自森は「光」の部分で成果をあげてきたから,このような重大な内的矛盾を抱えながらも存続してきたのだと思う。しかし,改めてよく見てほしい。その綻びは各所に現れているはずである。ひょっとしたら,すでに弱小大学と同様の兆候が表れているかも知れない。
 私が明言しているように,今の日本は大袈裟でなく,集団主義,管理主義,競争主義,画一主義の弊害が蔓延しており,その重大な表れが学校におけるいじめ問題である。その渦中にあって,自森の創立理念は今こそますます光を放っていると思う(理念自体は)。ところが,先のマンガチックな話で分かるように,自森は相変わらず,「太平の世」をむさぼり,「この世の春」を謳歌し続けている。

 そろそろ,目を覚まして,真面目に学校を管理してはいかがか。学校という組織があって,それを中高生という未成熟な個人が集団を形成している以上,管理しないで成立させるというのは,「夢物語」であり,「ユートピア」に他ならない。自森の現場は,「夢物語」でもなく,「ユートピア」でもない。もし,そうなら「いじめ」も「不登校」もなく,ほぼ全員が学校に来ている。現実の自森は,「無法地帯」に近い側面をもっている。現在(もちろん過去も)学校に来ていない生徒の現状を確認するがよい。例えば,作家として,ミュージシャンとして,或いは,高校生事業家として既に世に出ているような(或いは,托鉢僧として全国を旅しているとか)生徒以外は,ほぼ全員がいじめによる不登校であると私は断言してはばからない。
 創立以来記録されている事件(闇に葬られることなく記録されているもの)を全て洗い出し,それに対してどのような処置をとり,どのように解決されてきたのかをつぶさに検証するよい。もし成功例があるなら,それをルール化,システム化するとよい,万一,解決しないままに事件自体を「近づかない・触れない・話さない」のルールで処理してきたのなら,それを根本的改めないかぎり,自森に将来はない。
 繰り返して言う,不登校は,学校に行かない自由とは異なる。不登校はいじめを受ける被害者の最後の砦であり緊急避難である。生徒の側に認められる自由であり,それを学校側が言う欺瞞は許しがたい。 

 最後に,身近にヒントになることがあるので提供したい。弁護士は,各県弁護士会に所属することが義務付けられている。そして,弁護士会は,監督官庁による監督を受けない日本で唯一の私的団体である。医師,公認会計士,土地家屋調査士,司法書士,税理士等全ての専門職は監督官庁の管轄下にあって国の監督を受けている。弁護士だけが国の監督に服さない。それはなぜか?弁護士は,「基本的人権を擁護し,社会正義を実現することを使命とする」(弁護士法1条)からである。この使命を果たすためには,国を相手取って争うことも必要となる。戦う相手の監督を受けていたら話にならないから,弁護士自治のもとで弁護活動の「自由」が保証されているのである。「自由」は「責任」を伴う。そう,弁護士は,自由な活動を守るために,自らを治めて責任を果たしている。
 つまり,自由は,自治と繋がっている。そして,自治は責任と繋がっている。この自治にかかわる責任を放棄して,ナチズムに傾斜していったドイツの歴史を学ぶべきである。