水墨画を始めて3年が過ぎました~法律学・音楽・絵画の3分野がささやかに繋がりました

長年の友人でもある曽勤先生の教室で3年前から習い始めた水墨画の話です。

上野の精養軒で行われた展覧会の懇親パーティーで11弦ギターを演奏したことが水墨画を始める切っ掛けになりました(ブログに写真を掲載しています)。1ヶ月に1回程度,教室で描いているだけですから今でもまだ初級者のレベルですが,長年音楽漬けで多分凝り固まっていたであろう私の「こころ」に風穴が空いて新しい風が吹き込んだことは間違いありません。

昔,師匠に「練習ばかりしていてもダメだ。旅をしなさい」と言われて本当にギターを背負って旅に出たことがありましたが,芸術には「心的経験」が技術を越えた作用を働くことを教えてくれたのだと思います。確かに,私のギターの音楽表現は,約40年という長い音楽空白期間(10年間は生活の中から音楽を閉め出していました)と弁護士業時代を経た今の演奏は修行時代とは格段に違っています。芸術の表現はその人の人柄や人格を映し出す鏡です。最近,話題になっている「線は,僕を描く」(講談社)という水墨画家の小説は,題名がその核心にあるテーマを表現しています。

私の音楽の師である辻幹夫はあるコンサートで,「大切なことは,正しいかどうかではない。深いかどうかだ」と語りました。やはり,一つの芸術を極めた人の言葉は何人にも口を挟ませない重みがあります。確かに,共産主義や軍事政権等政治体制や時代によって「正しさ」はまちまちです。しかし,「深いもの」は時代や場所を越えて普遍的に存在し続けます。ルネッサンス芸術がその例ですね。師が言う「深さ」は「普遍性」或いは「真理」という言葉とも重なります。私の弁護活動にも「正義」を問うた裁判が少なくありませんが,「正義」という言葉が今の社会では何と薄っぺらいことか。私が人から評される言葉に「正義」という言葉がよく使われますが,「正義」が非常にぞんざいに扱われているこの世間では「世渡りが下手ですね」と言われているのと変わりません。その点,「深いもの」に拠って立つ限り,人に世間に何と言われようがびくともしません。

ブログのサブテーマ「3つの分野が繋がった」というのは,この「深い」ところで繋がるというごく自然な話なのです。宮本武蔵の水墨画や著作(五輪書)は,一つの道を究めた人が「真理」に到達した例です。 

私は音楽の勉強はそれなりにやってきましたから,いわゆる「玄人」の枠には入ると思いますが絵画となるときちんと習った経験もなく,その方面の才能はないことを自覚しています。それでも,私が音楽(クラシックギター)の修行をしていた青春時代に,コスモス,水仙,ポピーの花を2~3輪買ってきたり,長屋アパートの狭い庭に茄子やトマトを植えて実ったら水彩画でスケッチした時代がありました。この時期の私は,最低限度の生活費を稼ぐアルバイト以外の時間を「人間とは,人生とは,何ぞや?」を問う文学,哲学書,仏教に関わる書物に触れたりしながら音楽の修業をしていて私の人世で最もピュアーでストイックな時代でした。今は,俗世間に馴染んで「すっかりスレちまったなあ」という感じですが,あの頃の「ハングリー精神」は40年を経た今も消えることはないようです。
あの純粋な時期に水彩画を描くことの意義は分かっていました。例えば,自分が描いた水仙の花に,その時期の自分の「何か」が投影されいて愛おしく思うのです(花そのものでなく絵をです)。その頃に描いた水彩画が何枚か残っていて今でも見るとその当時の自分の分身をみるようで胸がキュンとします。その後,世過ぎ身過ぎをし,「世間」と折り合いをつけた今は,同じような絵は描けませんし,今自分が描いた絵を見てもその頃のような感慨が無いのが不思議です(あの頃ほど純粋じゃないからでしょうね)。それが自分で分かります。曽先生の教室で私が描く水墨画は24歳の私が描いた水彩画とは別物なのです。上手か下手かと言えば,今の方が上手なのは間違いないのだけれど。でも,このあたりに絵を描くことの大切な意味が潜んでいるような気がします。そう言えば,心理療法やセラピーでは,絵が大切な役割を果たしていますね。

自分が描いた絵を発表したり,絵を語ったりすることは決して本意ではなく,自分の下手な水墨画をブログに出す気になったのは決して自己顕示欲ゆえではありません。自分が描く線や色に「深さ」がないことを承知しています(初級ですからね)。最近は,自分のアイデンティティーである11弦ギターですら人前で演奏する意味が分からなくなって演奏活動を殆どしていませんでしたから当然です。そんな中で修行の一つだと思って水墨画を細々と3年続けてきて思うところがあるので,曽先生への感謝の気持ちと自分を振り返る意味でもここでブログに書いておこうと思い至った次第です(だから,潔く絵もお見せします)。先に触れた水墨画家の小説は,水墨画家だからこそ表現できる文章が随所に見られて他のどんな優れた小説にもない深い味わいがあります。ギターリストを目指した後に法律家になった私が「50の手習い」よろしく水墨画を描き始めたことで心に感じたことを文章にすることにも何か意味があるかも知れません。

私が水墨画を始めてまず感じたことは,音楽の演奏と非常に似ていることです。特に,美術展に出す絵を描くときは殆ど一発勝負で正にコンサートで演奏するのと似ています。出品作品の創作で,画仙紙に大切な線を引くことは,大切なフレーズを弾く場面と大変似ています。「ここが大事だ」と意識した途端にフレーズが乱れたり,ミスタッチをしたりするのと同じことが水墨画でも起こります。緊張した一発勝負の場の方が感動の点ではいい演奏ができることがあります。勿論,アガってしまい指が震えて演奏の体をなさなくなってしまう最悪の事態と紙一重の話ですが。その意味では,似たような技術ならアガらない人よりアガる人の方が感動という点では間違いなくいい演奏をします。経験上,全く上がらない人の演奏は詰まりません。アガる人は毎回危ない橋を渡っているので,守備よく渡り終えたときは大きな成果があるのは当然です。リスクのないところにはリターンもないという経済界の法則がここでも妥当します。この非常事態とも言える極度な緊張,「アガり」の先に感動を呼ぶ何かが宿ります。音楽表現においても「技術→メカニック」→「小手先」→「浅い」という宿命的な絡繰りが確かにあります。

私はある事を切っ掛けに「人はなぜアガるのか」という問題について突き詰めて考えるようになりました。人の意思で自らの行動をコントロールできないというのは非常に不条理です。ですが,逆に人間の奥深さを示しているとも言えます。実際,私にとって死活問題ですが,「人間とは何ぞや」という極めて哲学的な問いでもあります。改めて心理学の分野で答えを探したりもしました。しかし,未だに解決していません。いつ,突然,この魔物が忍び寄ってくるか分からないのです。でも,それこそが醍醐味なのかも知れず,また,それこそが人間の証しなのでしょう。
アガるという状態になっているとき,その人の心の奥の方で何かが起きています。一体,自分の心でどんな葛藤が起きているのか,自分で分からないのは不思議です。

昔,普段の練習では素晴らしい腕前なのに,いざ,人前にでると例外なく必ず極度にアガって,普通アガルというのは手(指です)が震える程度のことですが,彼の場合は手では済まず腕が暴れるという表現が合うくらいギターのホールの前で手がバタバタと痙攣するようになりました。これはもう見てる方が辛くてしょうがないのですが「明日は我が身」で決して他人事ではないので固唾を飲んで見守ります。何とも言いようがない様相の中でとにかく曲が最後に辿り着いて終わったら,全員が「ほっ」と胸をなで下ろすのです。この「一体感」というか,「連帯感」は何と言ったらいいでしょう。私のは彼に比べれば10分の一程度のアガリですが,それでもコンサートでは大変な状況であることは同じで,もし,そうなったその異常事態も含めて聴衆と共有することしか解決の道はないと思っています。「アガリ」にかけては追随する人はないであろう彼には,自ら「アガリ」と向かい合って,その非凡な個性を探究することが何よりも必要だったと思います。そうは言っても心理学をいくら勉強してもダメで,彼の場合はアガッても指が勝手に動くくらいただ練習するしかないですが。このように書いてきて一つの結論がでました。本当に練習をしていればアガリません。というより,アガッても練習どおり,稀にはそれ以上のことができるというのもまた本当です。
それはまた音楽という表現が非常に精神的な活動であることの証しです。芸術は深淵で日常生活では決して触れることのできない普遍的な何か(「真理」と言っていいかも知れません)が確かにあります。20代の修業時代と再開後の演奏活動を通じてこの恐ろしい人知を越えた「真理」を感じさせられることが何度かありました。このことは玄人か素人か,プロかアマかは全く関係ありません。私は,絵であれ,音楽であれ,上手くなってしまったらいけないと思っています(大変逆説的で,誤解を招きかねない表現ですが)。 
いくら練習しても上手く描けない時は「エイヤ」と本番にしてまうと結構上手くいったりします。かといって練習をしないでそんなことをしてもダメです。何事も普段の練習がものをいう点は変わりません。その意味では,上手くなってはいけないけれども,きちんと基本的な技術は習得しなければ話にならないのです。

楽器の演奏と似ているのは特に筆で宣紙に描く水墨画特有,或いは,最も顕著なのかも知れません。油絵のジャンルで,何度も重ねて塗り込んだり,折角上手く描いていると思って見ていると突然キャンパス全部を塗りつぶして初めから描き始めたりとかする玄人絵描きの挙動を見たことがあります。しかし,水墨画では薄い宣紙に一旦描いた線をなぞると穴が空いてしまいます。「一発勝負」と言うより「一筆勝負」です。私は「筆数(ふでかず)が少なければ少ないほど優れた絵になる」と勝手に得心していますが,我々初心者レベルでは逆に「技術」より,むしろ「精神力」の問題が大きいと常々思います。この点が水墨画の非常に面白いところで,それなりの人生経験を持った人が描く水墨画は圧倒的な迫力と個性があって驚かせられます(初心者であろうと,初めてであろうと)。

もう一つ,水墨画は,手だけ(筆を握っている部分)で描くのでなくて身体全体で描くという感じがします(畳10畳の紙に直径10センチの筆で「ヤー」とやるアレではありませんよ)。「身体全体」と言っても,「身体全体を動かして」というのではなく意識の問題です。このあたりは,音楽の演奏だけでなく武道にも通じるかも知れません。私が唯一黒帯レベルにいった古武道「合気柔術」(大東流)でいう「合気」の話ですが,かなり高齢の師範は見た目とはほど遠い恐ろしいほどの「力」をその指と手で表します。私のような弟子レベル(初段)でも手先や腕先ではびくともしないのに,「丹田」を中心に「腰」で技をかけると大男が容易に倒れるというアレです。筆先に合気柔術でいう「気」が入らないと線が死んでしまいます。「気」は入れるけど,「力」は抜く。難しいですね。この辺に絵を習うことが精神的修行になる秘密が隠されているように思います。  

suibokuga1.jpg習い始めて半年くらいの時期に曽先生に都美術館の展覧会に出すことを勧められて殆ど無理矢理に描いた(いや,描かされた?)のが「雪月に思ふ」です。こんな図柄を自分で思い付くはずはなく,先生から「雪が降っているバックにおぼろ月を浮かべメインに木を描いたら」とサジェスチョンを受けて描き始めましたが木が上手く描けません。そこで「木は難しいから船にしよう」「それなら雪空は止めて大河に変えよう」とトントン拍子に話が進み,「あれ,意外にいいね」といい加減な成り行きでこの図柄になりました。でも,イメージのレベルで,生粋の初心者である私の技術では「大河に舟」の方が「雪空に樹木」よりも深くてスケールが大きい世界観が出せそうという直感はありました。
後は,大河のバックを沢山作るのと平行して,河に浮かべる一艘の船を描く練習して,予めバックを描いた紙を4~5枚用意して,それに船を描き足して一番いいものを出品しました。でも,実際には後でいいものを選んだのではなく,「これで決めるぞ」という気合いで船を一球入魂で描いた記憶があります。先生方が固唾を飲んで見守るなかで舟と波を描き込むのはは殆どホールで演奏する緊張感の再現です。

この僅か半年のキャリアで出品した絵は展覧会でも好評を博しました。でも,何せ,勢いで先生方の手取り足取りでできちゃった絵ですから全く実感がありません。いくら褒められても他人事でした。その後,それなりに練習しているはずですがこの絵を越える絵を描くことはできません。欲も何もなくてある意味「無心」だったのかも知れません。これを人は「ビギナーズラック」と呼びます。

suibokuga2.jpgその後,約半年ごとに先生に勧められて出品した作品は7点を数えます。

suibokuga3.jpgその中で何となく気に入ってるのは,事務所の入口に飾ってある「雪月に思ふ」も含めて5点です。蘭の花「たおやかに」,福寿草「凜と」,ポピー「爛々」,2羽の鳥「無心」。

都美術館の展覧会では他の出品者はキャリア何十年というベテラン揃いで私のような新人は珍しいようです。キャリアだけでなく筆でよくこんな写真のように描けるものだと感心するような実力者ばかりで,私の絵がそこに一緒に並べられているのが場違いで私は違和感を感じます。でも表現する技術が足りないからこそ,技術を越えた「何か」が生まれる可能性があるかも知れません。あけすけに言ってしまえば,私の作品は周りと比べると圧倒的に上手くないので目立つことは確かです。どう考えても圧倒的な技術差が一目瞭然なのになぜか割と引き立っていて他の出品者とそれほど遜色なく並んでいる展覧会特有の「たたずまい」に良心が痛みます。 曽先生のご指導の賜物(たまもの)というしかありません。圧倒的に技術が劣る生徒の作品を堂々と展示させてしまうのもまた先生の力量でありセンスだといつも思います。その意味では恐いことに生徒の作品を見ると先生が分かってしまいます。展覧会は恐いですね

それから,私は,絵の題を付けるのに一工夫しています。絵では敵わないので題で「詩心」で勝負しようという魂胆です。私のビギナーズラック作品で言うと,「雪と月」「大河」「一艘の舟」を題にしては面白くない。見て分かることを題名にしても意味がないからです。そこで,象徴的な「雪月」という言葉だけを残して「思ふ」という主観を題に取り入れることによって寒々しい(ほんとに寒そう!)大河に浮かぶ舟のなかに多分いるだろう人(そして,多分,老人)の孤独な,しかし,静謐な心情を想起させることに狙いがあります。そして,この「多分,老人(そして,多分,生きてる)」が何を思うかは想像に任せます。水墨画に付す題名はささやかな「ポエム」の世界です。

suibokuga4.jpg「福寿草」とか「蘭」なら,それを題名にしないでそれを見る主体の側から素材である花に感じ取った「何か」を表現します。例えば,真っ赤な色合いの薔薇の絵には「燃ゆる」という題を付けました。また,出品作の2羽の鳥が枝に停まっている様の絵は,敢えてこの2羽に微妙な距離を開けて描いて,題も「無心」にしました。この2羽は決して語らっているわけでなく「つがい」で仲が良いわけでもない,自然そのものの一部である2羽の鳥の様子を思いつきでイメージしただけです。これに「語らい」や「仲良し」という題をつけるような気持ち悪いことは私にはできません。題の付け方でその人の性格や生き様まで分かってしまいますね。「無心」という一見高尚な題は,実は「ケッ,仲がいいわけじゃねえよ!」という私の「ひねくれ根性」から出ているのです。

「また本業に関係ないことを書き散らして」と言われそうですがそうでもありません。私の仕事(弁護士業)で閃き(ひらめき)に助けられたことが少なくありません。裁判を初めとする法律実務は,基本的に法律的な知識や経験をベースに個々の相談事例,依頼事例にそれぞれ相応しい対応や理論構成を選んでそれを実行していくことでほぼ事足ります。しかし,ときに何とかしなければいけない事態なのに教科書どおりでは全く対処できないことがあります。上手く当てはまる法律や判例がなくお手上げ状態です。恐らく,そのような場合多くの弁護士はその旨を伝えて諦めて貰うでしょうし,私自身もそうすることがあります。しかし,それを潔しとしない場合があります。「いや,そんなはずはない,何かあるはずだ」と。そして,その「何か」が唐突に見つかります。例えば,散歩の最中やプールで泳いでいる時に。そのとき,突然,法理論や条文が頭に浮かんで現実的な対策に至ります。「閃き」がこの普通とは違う「別ルート」を教えてくれます。普通のルートは,法律知識や判例などの情報から論理構成や法的手段へという思考ルートです。これは司法試験や司法研修所で繰り返しやってきたことで,特別な感性やセンスは必要ありません。司法試験に合格する程度の秀才なら誰でもできることです。その点では,残念ながら弁護士には個性や感性は必要ありません。むしろ,障害になりかねません。

しかし,閃きがもたらす逆ルートは,「おかしい」「不公平」「不正義」というイメージの世界,無意識にちかい思惟の深層から始まって,ある民法の条文や法理論を思い付きます。この過程は「閃き」としか言いようがありません。それには「無」に近い心境が必要で,私は「ダメだ」と思ったら一旦諦めて忘れてみます。一回諦めて,少し「寝かせて」から,もう一度,「本当にダメかな?」と静かに考えてみます。すると,散歩中に,もっと極端なのは,寝ているときに(勿論,神のお告げではないので,反覚醒状態です)閃くことがありました。だから,普通の仕事ではほぼ「閃き」は不要ですが,ここぞとい時には「閃き」が絶対不可欠なのです。普段は,個性・感性を隠して普通に仕事をし,いざという時にそれを使うというのが理想ですが難しいことです(「能ある鷹は爪を隠す」というアレ,だけど鷹にあらざる人は「爪」を中々隠せないんですね)。

音楽を作ったり演奏する,水墨画を描くという芸術の行為は殆ど無意識の世界にあって「閃き」を生む大切な土壌を育みます。勿論,技術が前提ですが,その上での芸術的実践は「閃き」の連続と言っていいでしょう。特に音楽の場合は,技術を習得する段階での苦行に近い訓練が必要でクラシック音楽の分野はジャズやロック等に比して最も高いスキルが要求されます。この苦行に耐えられた人だけがほんの一瞬の「喜び,感動」という恩恵にあずかることができます。時に訪れる「アガリ」という試練は苦行中の最たるもので,しかも,この試練を乗り越えられたという安心は永久に得られることはないのです。
分野を問わず,知識,習慣,常識など既成の型にはまったままだと通り一遍の仕事はできますが独創的な仕事をすることはできません。
私のライフワークであるエコキュート・エネファーム低周波音問題は「閃き」抜きにはあり得ませんでした。この仕事は現在,私が弁護士という仕事を続けて行く重要なモチベーションとなっています。また,新聞,テレビの報道や専門誌への執筆を通して全国的に名前を知られるようになったことは大変有り難いことです。もし,これがなかったら弁護士の数を見境なく増やすアメリカ追随政策のもとで頑固な私は営業センスに恵まれた若手の弁護士に群馬地域で淘汰される不安に苛まれつつ先細りの人生を送るしかなかったと思います。「閃き」こそ神の助けでした。若い時代の音楽修業はダテではなかったことを思い知ります。そして,この「閃き」を呼び起こしてくれた高崎在住のクライアントであるS夫妻は,私にとって忘れることができない人の一人です。私は,「縁」というものの大切さ,その本当の意味を知る人間の一人となれたのは彼らのお陰です。

心理療法的にも水墨画を描くことは大変有意義です。私自身,何かを悩み始めたことに気づいたらそのことを考えないようにしようと努めます。「どうしようか」と悩んでいるうち頭が痛くなって,悲観的を通り越して厭世的になっていくのが分かるからです。この悪循環が高じるとノイローゼや神経症といった状況に陥っていきます。このような状況では「何も考えないこと」が唯一の改善策なのですが,「何も考えない」のは大変難しいことです。「座禅」「瞑想」「写経」「読経」などはそのためにする修行ですが,座禅はやってみると色々と次から次へと頭をよぎり挙げ句の果てに碌でもないことを考えたりして果たして意味があるのかないのか私はよく分かりません(だから座禅だけでなく他のことも嫌いとまでは言わないまでもできれば避けたいことばかりです)。
ときには事務所に「心の病み」の領域に入りそうな人(既にうつの診断を得た人も)がやってきます。そんな時,法律的なアドバイスをしても殆ど役に立たないので,その人の心の中の「病み」の部分に手探りで近づこうとします。最後は,散歩を勧めるしかなくなりますが,要するに,「何も考えない」とか,「心を無にする」とか難しいことを勧めるのではなく,「別のことをしましょう」と誘います。その人は拘っている「何か」以外のことは頭にありませんから。

水墨画を描くときは頭の中は空っぽです。描いている最中は間違いなく「無心」です。これが精神に悪い作用を及ぼすはずがありません。

こうして,私は,かつては,音楽修行の挙げ句に,それが仕事や収入も含めて私が社会生活を健全に営んでいくこととは相容れないものとして音楽の道を捨て,法律の勉強を始めて司法試験を受けて弁護士になったのですが,ここへ来て音楽も弁護士業も水墨画も武道も全てが切り離せないものとなって結びつき始めました。最近,ブログも含めての執筆活動も私にとって欠くことができないと思うようになりました。執筆活動は決して陽の目を見てはいませんが私の自己実現の一翼を担っていることは確かです。このように若い未熟な時代には分裂し相剋し合う事柄が長い年月を経て融合し和合しあうということに人生の深淵を感じないではいられません。そして,だとすれば私のようなタイプは長生きしなければ損だとも。その点では私がある時期を境に身体を鍛え始めたことも繋がります(あー,そう言えばある時期に苦しめられた不眠症も知らないうちに治っちゃいました)。最近は月に20万歩から30万歩歩いてますがよく眠れる原因の一つになっているようです(銀座でたまに見ますが,仏教に「歩く」修行がありますね)。お金もなくなって色んなことができなくなっても最後に「歩く」ことが残っていると思うと何か心強いですね。

曽勤先生の教室では私は最もやんちゃな生徒です。教室では先生のお手本に忠実に描くよう指導され,私自身はそうしているつもりがいつも違う絵になってしまい,先生から「オリジナル」と言われています。恐らく,他の先生の教室では厳しく直されるのでしょうけど(それだと速攻で辞めちまいますね),曽先生は好きにさせてくれます。このあたりは曽先生の作風にも関係するところだと思いますが,生徒の個性を伸ばす優れた指導者の証しだと思います。

曽先生のことはネットで検索すると画集や個展などの記事が沢山出てきます。興味がある読者は是非アクセスしてみてください。

水墨画は,筆と墨(黒だけでなくカラーです)で偶然の濃淡やかすれで微妙な味わいを生み出すことで技術を越えた効果を出すことがができる点でビギナーでもそれなりの表現ができる独特の芸術分野です。基本的に線で一つの世界を表現する点が,難しくもあり,また,非常に面白さがあります。この「線」が水墨画の生命線である点こそが初心者にはチャンスなのです。曽勤先生の教室で新人が参加したときに,「おっ,凄い」とびっくりさせられることがあります。初めてでも,初心者でも,一つの世界を表現することができるのが水墨画の最大の魅力です。

どうぞ水墨画の世界にいらっしゃい!

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