低周波音問題及び関連裁判について法律家として思うこと

2017年2月9日

私が現在出版準備中の原稿(全部で140P余り)のうちの一部を掲載します。理論的に(法律学的に)かなり踏み込んだ論文であると同時に、多分、誰も書いたことがない「本音」を吐露していますが、誰かが言わないといけないとの信念が根底にあります。 
 志を同じくする被害者や専門家に目を通していただきたいのは勿論、この論文では「敵方」にあたる権力側に突きつけることが本願です。その意味では、立法府及び行政庁には、「提言」の意味合いを持っています。
 この記事の「親」である原稿は、果たしていつ、日の目を見るか分かりません。だからこそ、先んじてここに掲載することにしました。この掲載部分は、私の原稿の中では、「懐に忍ばせた刀」です。是非、ご一読を。
低周波音関連裁判について法律家として思うこと

<低周波音問題に法規制がないことは裁判でどう影響するか>
 ここで書き記すことは、私の裁判で常に最終段階で書面で提出している内容です。そして、司法機関(裁判所)の機能の根幹に関わる極めて理論的な問題を論じるものです。恐らく、この本全体で最も専門的な内容ですし、普通の裁判では滅多に目にすることがないであろうとも思われる内容です。しかし、ここに書くことは法律家である私が裁判所に(というより、裁判官に)是が非でも問いたいことで、私自身がこの本では省くことはどうしてもできません。その意味では、一般読者を対象としたガイドブックには相応しくない内容だと予告しますので遠慮なく飛ばしてください。
 まず、典型7公害に含まれる騒音については、騒音規制法による規制基準を初めとした基準がありますが、低周波音の場合は、法律上の規制もなく、行政上の基準値も定められていません。このことが他の公害とは格別に被害者が見捨てられる結果を引き起こしていることは既に書きました。先に触れた国賠訴訟もこの点を国に問うものです。国といっても実体が分かりにくいですが、ここでの国は、日本国政府であり、訴訟法上の代表である法務大臣です。この国に対しては国賠訴訟をするしかないのですが、隣家や製造業者に対する民事訴訟では、致命的なハンディキャップを負っての戦いになります。ときに被告らから「低周波音には規制がないから違法性がない」との乱暴な反論がなされることもあります。勿論、「規制する法律がないから、(例えば刑法のごとき他の法律に触れないかぎり)何をしてもいい」と言うに等しいこの反論は論理的に明白な間違いで、これを言ってしまうと「アウト!」、法律家失格です。新潟水俣病事件では、河川下流の住民が重度の中毒症を患って亡くなっても、殺人罪、過失傷害罪のいずれにも触れないので、メチル水銀化合物が阿賀野川に垂れ流され続けて長年にわたって水俣病患者が発生し続けたことを考えれば、そんな話が通るはずはありません。裁判では、法規制がないことが理由で棄却されることはあり得ません。しかし、建前はそうですが現実は甘くありません。水俣病やイタイイタイ病に代表される大型公害事件では、心ある裁判官によって悪循環に終止符が打たれましたが、それまでは「低周波音問題」と同じ境遇に置かれていました。私が代理人として提起する低周波音関連裁判では、騒音規制法のような法律がなく、法律がなくとも環境省が定めた基準値があればよいのだけどそれもない。そして、法律や行政上の基準に代わる裁判例があればよいのだけれどそれもないに等しい(低周波音問題を真正面から取り上げて指標となるべき判断を行った判決例は、私の理解では普天間基地騒音訴訟を除いてほぼないと言えます)。この状況では、「低周波音」という裁判官が見知らぬ新たな公害事件で勝訴するのは奇跡と言ってもいいかも知れません。ただ、この「奇跡」という表現は、裁判所や官庁など「体制」に対する揶揄的表現です。「奇跡」と言わざるを得ない危機的状況が今の司法の現実だということです。理論的、或いは、論理的には奇跡でも何でもなく、日本の法体系の頂点にある憲法から導かれる論理必然の結果です。欧米と源を同じくする近代的法治国家日本ではいつか必ず実現することは間違いありません。「勝訴は奇跡」と本気で思って被害者から依頼を受けるのは詐欺に等しいことでそんなことはありません。この「奇跡」を信じ続ける姿勢から高崎や川越の裁判で和解が成立しました(これらも西名阪高速道の事件と同じく「奇跡的和解」と言うべきでしょうか)。
 歴史的な大型公害事件では、裁判所が従来の民事訴訟のルールを大きく変換する新理論を打ち立てることによって原告勝訴判決が可能となりました。民事裁判での法律上の基本原則に沿った判断で完全に慣習的に定着しているルールを大きく変換する判断方法をこの裁判所(つまり、担当裁判官です)が採用して判決を下したのです。新潟水俣病事件判決が「企業活動と人間の尊厳との関係につき、発想の転換を促し、司法の威信を回復し、正義と衡平感覚を示した名判決」と謳われるのも当然です。私はこの評釈が大好きで裁判では必ず引用しています。裁判所、裁判官、裁判に(勿論、弁護士にも)幻滅し続け、心情的には弁護士自体を辞めたくなるくらいですが、モチベーションを失わずこの仕事を続けていられるのは彼ら先達のおおかげかも知れません。
 さて、法規制がないとなぜ敗訴しやすいか、ここで本項のテーマに繋がっていきます。公害事件の裁判では、殆ど必ずと言っていいほど、「受忍限度論」というものが登場し、それによって判決が導かれます。難しい話は避けますが、要するに、諸般の事情を総合的に評価して侵害行為(例えば、騒音を発生させる行為)が社会生活上、受忍限度を越えているかどうかを判断するというもので、考えようによれば、理論というには随分と大雑把なものです。大雑把ですが使い方によっては、つまり、判断する際の要素を適切に取り上げて緻密な判断をすれば優れた理論と言えなくもありませんが、低周波音問題にとっては、大迷惑な代物です。どういうことかと言うと、この忍限度論では、例えば、その事例の測定値が騒音規制法の規制基準や自治体が定める基準を超えるかどうかが重要な判断要素となり、事実上、これによって結論が決まると言ってもあながち間違っていません。低周波音の裁判では、この決め手に欠けるため苦戦を強いられる結果となります(そこに参照値が邪魔をするので腹立たしいことこの上ない)。裁判所が判断の拠り所とすべき法規制や公的基準がないために、裁判所は原告の訴えを退ける他の根拠を探します(建前上、規制がないことを理由にできないので)。そこで、裁判所は、科学的知見がないことを理由として、さらには、科学的知見がないのをいいことに参照値まで持ち出して請求棄却(これが敗訴の判決文です)の理由にする始末です(原告があれほど参照値を参考にしてはいけないと言ってきたにも拘わらずです。また腹が立ってきました)。普通に考えても、「『低周波音』というものが騒音なのか、そうじゃないのかもよく分からないし、法規制も基準もないし、原告代理人はよその国のガイドラインがどうとか言ってくるけど、よその国のことだし、そう言えば、被告が言ってる環境省の参照値は唯一の公的な基準じゃないのかな」とくれば、この事件を担当した裁判官が「これは棄却で決まり」と結論を出すことは至って当然かも知れません。しかし、このように安易に低きに流れるばかりでいいのでしょうか。
<裁判所の規範形成機能・政策形成機能>
 そこで、原告勝訴の可能性を追求する上で避けて通れないのがこの壮大かつ深遠なる議論です。「規範」というのは、国会が作る法律、官庁が制定する規則、地方自治体が作る条例などがそれです。そして、「政策」は、それに基づいて具体的な法律が国会で審議されて制定されるもので、「自民党の政策」という場合の「政策」です。これらを裁判所が判決(和解も)という形で作る機能のことを「政策形成機能」「規範形成機能」(法創造機能とも言います)です。
 中学校の社会科で「三権分立」と習ったとおり、法律を作るのは国会の仕事です。実際には官僚が下準備して、というより初めから官僚が作った法案を国会の議決を経て作られます。法律案は官僚を擁する内閣が提出するものが殆どで国会議員が提出して成立する法律案は殆どないようですが、いずれにしても裁判所の仕事ではありません。裁判所(司法とほぼ同義です)以外の国家機関を「政治部門」と言って、司法と政治部門との区別は我が国の法制度の基本です。しかし、この基本に「相互の抑制と均衡」というスパイスを加えて調和を図ってよりよい国にしていこうというのがモンテスキューが唱えた原理の理想で、ある法律が憲法に違反しているかどうかを審査する権限を最高裁判所に与えられているのはその一例です。規範や政策を裁判所が作るという例外的な事象もこの原理から生まれます。
 現代のように科学技術が速いテンポで進展する社会では、これらの科学技術に対応する政策的な手当てがないままに現実の社会問題が起きてしまい、裁判所に問題解決の役割が求められることがあります。多くの大型公害事件がそれであり、最近ではアスベスト(石綿)問題が好例です。被害者である原告が政治部門や企業に対して影響を与えることを意図して訴訟を起こすことを「政策形成訴訟」と言います。私達が提起してきた民事訴訟にも同じ意図がありますし、国賠訴訟にいたっては完全に政治運動・社会運動であり政策形成が目的です。そして、政治部門の不備や遅れに対して、裁判所が既存する法律の解釈によって、或いは解釈を超えて「法創造」と言うべき機能を果たすことがあります。もちろん、裁判所が気ままに,恣意的に「法」を創ることはありません。あくまでも、最終的には憲法によって正当化・合法化されます。現実に、民事訴訟が提起されること自体が政治部門の動きを促進させることがあります。一連の薬害訴訟では、裁判と並行して医療法改正や医薬品の副作用の救済制度が実現しています。裁判所の政策形成機能が現実に果たされた典型例と言えます。政治部門が科学技術の発展に追いつかずその手当てをしない状態で、現実にそれが原因で被害発生が続出する事態が生じた場合、被害者にとっては最後の砦である裁判所に頼るしかなく、また、裁判所も救済に乗り出すことが要請されます。私は、低周波音問題に関しては、「手当てが追いつかない」とか、「怠っている」状況ではなく、故意に行政上の基準を定立せず、しかも、基準ではない参照値(大変緩い)を意図的に定めるという「故意」による状況であると考えており、だから、国賠訴訟では、前者につき国の「不作為」、後者につき「作為」による義務違反を問うています。低周波音の場合は、典型7公害に比べて科学技術的に後進的なのはやむを得ないので、政治部門のうち、国会による低周波音規制法の制定よりも、環境省が、適切な、つまり、被害者救済の途を相当程度開くことが可能な基準値を制定することが現実的です。ところが、環境省は、「それなりに」長年にわたって、「それなりに」熱心に調査検討をおこなってきたはずなのに、「それなりに」適切・妥当な基準値を制定せずに、円滑な経済活動の促進に資する数値である参照値を、「それなりに」でなく、「しっかりと」制定したのです。これを故意と言わずして何と言おう。環境省が「それなりに」調査検討してきた成果からすれば、「それなりに」適切かつ妥当な参照値を制定することは難なくできたはずです。ここで環境省が聴覚が敏感でない方の90パーセントの人口を基礎とした値をとるか、オランダのように10パーセントの敏感者の値をとるかは、環境省の裁量(つまり、その権限の範囲で自由に決められるという意味です)であり、欧州のガイドラインに倣っていれば、だれも文句を付けることなんかできません。同じ理由で、つまり、どのような数値を参照値とするかは環境省の裁量であるという理由で第1次国賠は簡単に敗訴しています。このようなことで、裁判所が規範形成機能を果たさないかぎり、低周波音問題訴訟は勝訴する可能性がないことになるので、私は、裁判官に、「裁判所はこの機能を自覚して、この役割をちゃんと果たして下さい」と要請しているという次第です。
 そこで、私が、裁判所にどのよう規範の形成を求めているかですが、それは、先進国である欧州のガイドラインやISO感覚閾値の平均値にあたる基準を裁判所自ら提示することです。本来は、「低周波音規制法」という法律と規制基準が定められるか、或いは、環境省が適切な参考値(名前は何でもよく、参照値でも構わない)を定められているべきところ、裁判所がこれら政治部門に先んじて基準を定立するわけですから、裁判所による「規範」形成です。私は、ISO感覚閾値に加えて、スウェーデン、ドイツ、オランダ、ポーランドの4国のガイドラインのうち、数値が高い方(つまり、厳しい方)から3つを選んでその平均値を求める手法によって算出した数値を裁判所が定立すべき基準であると主張しています(国によって数値にムラがあり、周波数によっては一部緩い数値があるためです)。これらの民事訴訟で本来は環境省の仕事である基準定立を裁判所が行うことができる法的根拠は、もちろん我が国の最高法規である憲法の13条(個人の尊厳)や25条(生存権)です。エコキュートやエネファームの運転音によって個人の健康やひいては生命までもが危険にさらされている状況では、裁判所はこれら憲法上の基本権を保護するために、必要な限度で法創造を行うことが義務付けられているのです。
 裁判所がこのような判断手法をとることによって初めて低周波音裁判の勝訴への途が切り開かれることになりますが、この「伝家の宝刀」は例外的に行使するために予定されているものであるため、倣う先例なき状況でこれを振るうことには、パッション面での裏付けである大変な勇気(或いは、正義感)と知的な裏付けとしての知性と教養が必要です。
 大変、難しいことを書いたかも知れません。しかし、低周波音問題に関する限り、このような考え方が不可欠であり、それは裁判だけの議論ではなく、環境省による基準制定や国会による立法に対しての非常に重要な政策的提言でもあるのです。
<国賠訴訟・民事訴訟で勝訴できない理由>
 私達が提起する国賠訴訟と民事訴訟でなかなか勝訴できない理由をもっと突っ込んで考えてみたいと思います。法律の素人の皆さんの一般的な受け止め方は「元々、無理な、無謀な裁判だからでしょう」という感じでしょうし、理屈っぽく考える傾向がある人は「そりゃ、勝てるだけの根拠が希薄だからだろう」と言うに違いありません。しかし、本当の理由は、原告側の主張・立証自体の問題ではありません。私は、自慢でも、言い訳のどちらでもなく、現時点で可能な最高で最大限の主張と立証をしていると自負しています。裁判所が言うような科学的知見がない、または不充分なことは本当の理由ではありません。低周波音問題に関する知見はないと言えばないし、あると言えばあります。
 本当の理由は、裁判官の心性とか心理状態にあります。前に述べた勇気とか、正義感の欠如もそれですが、真相はもっと根が深いところにあります。我が国の裁判制度は、法律を適用して具体的な紛争・事件を解決することが原則です。このような仕組みを「法治主義」と言いますが、我が国では、それにとどまらず、例外的に裁判所が憲法を拠り所として間違った法律を正したり、法律がない場合は裁判所がその事件限りで法創造を行うことができるということは説明しました。この「法の支配」という仕組みを採用してることを日本国憲法が宣言しています。このように裁判所には例外的な権限が認められているのですが、これを行使することは大変に勇気が必要で、これを乗り越えるには、正義感と高い知性と教養が必要だということは前にも言いました。この「正義感」は法的には憲法が裏付けてくれるもので、「法的正義感」と言うべきものです。しかし、私が「根が深い」と言ったのは次のような問題です。
 さて、低周波音公害の分野において、なぜか我が国の環境省が参照値という邪(よこしま)な数値を発表していることは既に触れました。法的には正体不明というしかないこの数値が事実上、法律上の「基準値」として機能していることはここでは繰り返しません(日本語としては「参考値」と同じ意味だと思います。従って、「参考値」という名称でもよかったはずですが、さすがに格好悪いと考えたのでしょうね)。もし、このような行政上の措置が取られていない状況であればまだしも、現実に参照値が存在し、それが被害者に足枷をはめてむち打っている状況なのに、司法もどきの行政機関、公調委ならまだしも、裁判所が「見て見ぬ振り」をするだけでなく、あろうことかそれを判決理由にする裁判所まであるのです。そこには「裸の王様」に喝采を送る様が見て取れます。
 どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。これを説明するには、「日本人の法感覚」というテーマに入っていく必要があります。法哲学を扱ったある法学者の著作で大変興味深い話が出てきます。著者は、日本の神話や説話には、「見てはいけない」というタブーが破られて「見にくい(醜い)」姿を見られた者が見られたことの恥のために立ち去っていくというモチーフ(鶴の恩返しが最も有名)が繰り返し表れるとして、日本人には、見たくないこと見にくいものから逃避して、その実態をつぶさに見ることを誰か他の人に任せようとする心情が顕著であり、それは「きれいごと」「見て見ぬ振り」「言わぬが花」「臭いものに蓋」という言葉に表れていると言います。そして、ある人の過失は誰にもあることとして「これから二度としません」と詫びることで許されて「水に流し」、言葉で第三者に伝えて「公(おおやけ)」にすることを避けるのが日本人の精神構造であり、それはその場限りの「許され型罪悪感」と呼ばれるとしています。著者は、日本人の法感覚について次のように言います。例えば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉に示されるように、多くの違反者がいれば法は適用されないという感覚であり、一人だけ厳格に法を守ろうとする人はむしろ、「くそ真面目」「杓子定規」な人として非難・排斥される可能性が高いと。例え、間違っていようが、不正義であろうが、取り敢えず、慣例に従い、みんなと同じようにしておくことが無難です。確かに、日本人の法感覚、日本人の正義感覚はそのようなものだろうと思います。また、これは日本の文化の特徴である「和の文化」や「集団主義」の表れでもあるでしょう。このような法感覚・正義感覚は、何が正義かを自律的に判断しようとする姿勢とはほど遠く、ある法律がある行為を禁止している場合、どうして法律がその行為を禁じるのか、その法律の背後、根底にある「正義」については全く意に介さず、ただその法律があるからという理由だけに終始することになります。
 もう一つ先の法哲学者は、人が権威に従う心理について興味深いエピソードを紹介しています。ある社会心理学研究者がナチス時代のドイツ人がなにゆえにあれほどの残虐行為を行ったのかという疑問から、一般のアメリカ市民を対象にある実験を行いました。先生役を割り当てられた市民の被験者が生徒役の被験者にある問題を出して生徒が誤った答えを出した場合に電気ショックによって罰を与えるというものですが、実は生徒役の被験者は実験者が用意した「サクラ」で実際には通電しないけれどショックを受けている演技をします。先生役の被験者の傍には実験者(専門家らしく白衣を着ています)が付き添って回答しない場合も含めて電極ボタンを押し続けるよう指示されます。実験の結果、悲鳴をあげるように設定されている350ボルトを超えて450ボルトの最高電圧まで指示に従ってボタンを押し続けた先生役被験者が多数派で、結局、実験の継続を拒否した被験者は僅か30%という実験結果が出たそうです(生徒役が女性でもさほど差はなかった)。この実験は、多くの人が白衣を着た研究者(恐らく官立大学所属)の「権威」に服従し、自らの良心的呵責を「権威」によって正当化したことを証明しています。この実験の対象はアメリカ人でしたが日本人だったらどうだったかという点はパスしますが、拒否者の数は同じかもっと多かったのではと想像できます。いずれにせよ、「権威」に服従する心理はある程度普遍的なものと考えるべきです。
 このような普遍的な心理傾向を裁判の場でどのように表れるのかを考えてみましょう。この「白衣」に象徴される「権威」は、「法律」や「裁判官」であり、その裁判を担当する裁判官個人の立場では、恐らく、上席(上役)の裁判官、地裁の所長、裁判所人事を司る最高裁であり、先例の判決だったりと色々ですが(特に、人事考課に具体化される「権威」は最強です)、いずれにしても、その裁判で問われるはずの「正義」は関係なく、その時々の「権威」に取り敢えずは従っておこうということになります。低周波音裁判で、真の「正義」が問われるのは、欧州のガイドラインを大幅に超える測定値と健康被害の発生、そして、これを余裕で許容する参照値の存在という厳然たる事実と直面したときです。しかし、残念ながら、「大勢」はどうであろうが、私は私の「正義」に従って判断をするという行動は期待できません。憲法では「司法権の独立」が保証され、国家機関としての裁判所の独立と裁判官個人の独立が保証され、「すべて裁判官はその良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律のみに拘束される」(76条3項)と定められています。これは政治部門(国会、政府)に監督されたり、司法内部でも最高裁や上役裁判官の人事考課による影響を受けたりするとその職責を全うできないからなのですが、現実は・・・というわけです。
 大変前置きが長くなってしまいましたが本題に入りましょう。なぜに「法の番人」であるはずの裁判官が法規制及び基準なき低周波音公害が問題となる裁判でいとも簡単に、悩みも葛藤もなく被害者敗訴判決を次々と下せるのかがここでの疑問です。それは日本人の法感覚、正義感覚がそのまま裁判官に投影しているというのが私が出した答えです。権威に服従する人の心理も大きく影響しています。
 西欧諸国のガイドラインを大きく緩めた参照値が殆どの被害者を切り捨てる結果になるであろうことは、裁判官ならずとも誰でも分かることです。ところが、それがいざ裁判になり、専門的な法的評価というステージに登ると、憲法を拠り所とする「正義」はどこかに飛んでしまって、タテマエ的な形ばかりの空虚な議論だけで敗訴判決が書かれるのです。先の法哲学者は、「忠臣蔵」を例に出して、喝采して讃える庶民の声に苦慮しながらも死刑判決(切腹)を下し、赤穂浪士は、罪の意識を持たないにも拘わらず、甘んじて政府(江戸幕府)の判決を受け入れた事件に、裁判と庶民的正義感覚が乖離している点を日本人の正義感覚の一つとしてあげています。全ての裁判官がそうだとは言いませんが、昔に比べると日本人一般の法感覚・正義感覚とは一線を画する「法的正義感」をもった裁判官がますます減ってきているという印象を私は拭うことができません。低周波音問題以外の民事・刑事裁判で現実にそう思わせられる場面に遭遇するのです。最近のことですが、探偵社に夫の浮気調査(1週間)を依頼した妻が調査料として税込みで393万円を支払った事例で適正と思われる価格(60万円、私としては大盤振る舞いです)を差し引いた料金の返還請求をしました。因みに、別の探偵社にもほぼ同じ内容の調査を依頼した際の料金は税抜き50万円、浮気相手に慰謝料請求する場合の弁護士費用の目安は20万円~30万円です。この場合、目的に当たる裁判の費用と手段である調査費用を比較すると「高すぎる」という意見が常識的であり社会通念であると言えます。司法不信のさすがの私もこの裁判は勝訴を確信していました。ところが、驚きの結果でした。何と請求棄却です。開いた口がふさがらないとはこのことです。この種の事件は、公序良俗(民法90条)に違反するかが争点でこの分野では「暴利行為」というジャンルに該当します。時価の3.8倍の不動産売買を公序良俗違反で無効とした判例がありますから、恐らく標準価格の6倍~8倍でろうと思われるこのケースは請求が認められてしかるべき事案です。現在、東京高裁に控訴中ですが、この裁判官とは他の裁判で顔を合わせる機会があり、真正面からこの人の目を見ることができません。正義・不正義の区別に対して非常に寛容、悪く言えば、鈍感です。このような傾向が最近の裁判ではままあります。
 日本初のユング派分析家(ユングは、ユング心理学の創始者)の資格取得者で文化庁長官を務めた河合隼雄氏は、日本人の心の特性を次のように論じています。キリスト教の唯一至高至善の西洋の神をもつ考え方(これを「中心統合型」と言います)に対比して、日本神話の特徴を「中空均衡型」と呼びます。つまり、中心統合型では、中心に絶対化された神が存在し、それと相容れないものは周辺に追いやられるか排除されるのに対し、日本神話の構造は、中心が無為の(空虚な)神によって占められ、その周辺に色んな神がうまい具合に均衡をとりながら配置されていると言います。そして、日本的「中空型」は、対立するものが共存できる妙味があるものの、時にはどうしようもない悪を抱え込んだり、全てが曖昧になってしまう欠点を持つと指摘しています。日本の神話と西洋のキリスト教を比較した立論ですが、日本の文化や精神構造を考えた場合、大変洞察に満ちた指摘で感心します。河合氏は、「中心が空であるため、それは善悪、正邪の判断を相対化する」と核心を突きます。正義・不正義の区別に寛容な市民感覚をもろに受けた裁判官の姿勢の有り様は、河合氏がいう中空均衡型の日本人の特性を如実に表すものだと思います。

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