低周波音国賠訴訟に関連するメッセージ

2019年9月11日

「低周波音被害者の方々は,相談する弁護士の『立ち位置』にご注意を!」
 
 国賠訴訟(正式には,「国家賠償請求訴訟」,我々は略して「国賠」と呼んでます)に関するブログを前回書きました。「ついに判例タイムズ掲載!」って感じのノリでしたが,今回はちょっと違います。ネットで「低周波音被害事件」で検索したところ,私が提起した国賠訴訟の判決についてある弁護士が解説をしたブログが目にとまりました。やはり,頼みもしないのに解説してくれるんだから,『判タイ(判例タイムズ)』の影響力は凄いですね。しかし,このようなブログ記事が出なければこのブログが世に出ることはありませんでした。私が私の『立ち位置』にある以上,これを書く責任があると思い筆をとりました。
 さすがに『判タイ』に掲載されれば,もはや私自身の手を離れて,有象無象も含めての批評や批判に晒されることは覚悟の上です。被害者の立場に立った低周波音問題が「表現の自由市場」に登場して「陽の目をみる」こと自体に意味があります。それこそが負けるのが分かっていて,しかも,「変人」扱いされてまで頼まれもしないのに国賠訴訟をやる理由です。つまり,端的に言うと,社会への「問題提起」です。社会運動の一戦略として提起された請求分離原則がらみの憲法訴訟がその代表ですね。ニュースにすること自体が目的なのです。マスコミは民事訴訟よりも関心が薄く2行程度の記事になった程度で終わって失望しましたが,忘れた頃に『判タイ』に掲載されたのは私自身びっくりし,それも当初の目的通りと気づくのに時間がかかったことは前回述べたとおりです。
 私と被害者の皆さんで提起した2度の国賠訴訟も99.9%敗訴することを承知でのことです。その点ほぼ絶対勝てない憲法訴訟に近い様相を帯びています。第1次が平成24年,第2次が平成28年と,偶然にもオリンピック並みのサイクルになってますが,要するに,毎年なんかとてもやってられないほどエネルギーが必要だということです。周期的には来年あたりが第3次ですが今度はもう少し時間がかかりそうです。
 さて,私の目にとまったブログ記事の筆者は,ネットで「低周波音・弁護士」のタームで検索すると必ずといっていいほど私と共に1番目と2番目に登場する弁護士で,立場を離れて「低周波音問題」を勉強するにはもってこいの著作物も出版しています。専門分野を同じくする同業者としてある意味「もっとも近く,もっとも遠い」存在です。低周波音問題に関心を持つ人の多くは,この2人の弁護士の記事を両方,或いは,どちらかを読むことになるようです。
 彼の記事では,3つの判例を取り上げてそれぞれ,「事案の概要」「判決の要旨」「解説」と端正かつ簡略に整理しています。立場を離れて見る限り,低周波音問題を扱った裁判例の解説として申し分ありません。がしかし,私の『立ち位置』からは大変問題があります。立場を異にする専門家が発する情報に触れることは低周波音被害者にとっては大変意味深いと思います。その「意味」は読む人の『立ち位置』によって大きく変わります。例えば,騒音を発生させる可能性がある企業とそれによって被害を受ける市民ではその情報がもつ意味,価値は全く逆になります。私の立場では,被害者の方々は是非とも私のブログは必ず読んでほしいと思います(少なくとも両方読んでほしい)。
 さて問題の解説ですが,1番目が私の国賠訴訟で,2番目が平成17年の東京地裁でライブハウスの事案(これはさすがの私も初耳),3番目が昭和63年の甲府地裁都留支部でスーパーマーケットのコンプレッサーの事案。これらの解説は一貫して,「環境省」「参照値」「手引書」がキーワードになっていて環境省の「手引書」と「参照値」が彼の解説の拠り所になっています。
 まず,最小可聴値を一つの基準にして受忍限度を論じて損害賠償と具体的措置を命じて被害者を救済した甲府地裁都留支部の判決については,結論については何も語らず参照値より低いレベルを受忍限度とした点を批判しています。参照値を発表した環境省を断罪する私の立ち位置とは真逆であることが分かりますね。
 次の東京地裁は,ライブハウス側に不法行為に基づく損害賠償責任を認めましたが,今度は「手引書」に則って判断していないと批判しています。
 問題は国賠の解説です。この国賠訴訟では,被告の国側は,「環境省自らが低周波音のレベルが参照値に達していなくても被害が生じる可能性があることを通知している」と反論していますが,彼は「そもそも何のために参照値が存在するか分からなくなってしまう」と『環境省の守護者』の立場を表明しています。彼にとって「手引書」は聖書なのですね。
 彼が紹介した二つの民事訴訟は,極めて良心的かつ進歩的判決です。私が提起した訴訟は和解で解決したもの以外は残念ながら却けられていますから(どの判決も参照値をうまく避けて理由付けをしています),低周波音の被害者にとっては救いの判決です。伝統的な受忍限度論の枠内で法的判断をしていて理論的には全く問題ありません。彼の批判は,ただただ『バイブル』を引いていないという一点にあります。
 どの立場に立とうが,参照値は,基準値として参照するには非常に問題がある数値であるため,これを鵜呑みにしてはいけないのに,現実には,ありとあらゆる場所で被害者が切り捨てられているのです。
 これこそが私が冒頭で掲げた「弁護士の立ち位置」の問題で,被害者の皆さんに注意を促す所以です。弁護士の『立ち位置』を決定するのは,「参照値」に対する法的評価です。ありがたくも『お上』がお出しになった「参照値」を崇め奉るか,それとも,日本の最高規範である日本国憲法をバイブルの如く頂くかによって「参照値」の評価は分かれます。
 もし,隣家の室外機や工場や商店の設備機器による低周波音のために健康被害を受けて苦しんでいる人が,彼のブログ記事を読めば,本来は被害者にとって希望の光であるはずのこれらの判決は間違いで,音が参照値に達しないと救済されないんだと諦めてしまいかねません。そして,もし,被害者の人が彼に相談したら,当然測定値が参照値以下だから無理ですと言うわれるでしょう。
 ある程度勉強をした被害者は,ネットに出ている情報を自ら選別して,自分の被害を救済してくれる可能性がある専門家を選択することが出来ますが,まだ勉強が足りない被害者は「専門家」という実体なき権威を盲信し事が進んでからようやく選択の間違いに気がつきます。
 例えば,医療過誤の分野は,高等裁判所に専門部が存在するほど成熟しているので,弁護士も医療機関側と被害者側とにくっきりと分かれていて,医療機関側の弁護士に依頼しようとする患者はいないし,例え,相談に来ても弁護士の方がはっきりと断るのが常です。ところが,低周波音問題という未開発な分野では,被害者側と企業側の区別がはっきりせず,そもそも,扱う弁護士自体が殆どいないため,弁護士に依頼して法的な手段をとろうとしたら取りあえずネット情報に頼ることになります。
 十分勉強をした被害者は例外なく「参照値」がいかにふざけたものであり,有害ものかということを知っていますが(私は『裸の王様』と呼んでいます),初めて情報に接する被害者は注意しないといけません。だって自分を守ってくれるはずの代理人が敵方の武器を持ちだしたら困りますからね。私は,このような「立ち位置」の表明も広い意味での専門家の「説明義務」(インフォームドコンセント)に属すると思います。
 さて,問題は,国賠の解説です。解説では,「低周波音の測定値が参照値に達していなかった場合に被害者を切り捨てるために用いられているという批判が強いです」と言い,さらに,消費者庁が参照値未満でも被害が生じる可能性があると報告し,環境省自身も同様のことを公共団体に通知していることを指摘した上で,「しかしそうすると,そもそも何のために参照値というものが存在するのかが分からなくなってしまうという問題もあります」と参照値を擁護する『環境省の守護者』の立場を表明しています。勿論,相対的な価値観をもつ自由を認めるのが現憲法ですから,大企業や国を擁護することは全く問題ありませんが,専門家を標榜する以上,「低周波音被害者救済と参照値の関連性」に無頓着では困っちゃいます。低周波音問題にある程度精通していれば,参照値は多くの低周波音被害者の救済の道が閉ざされる結果を招くという客観的な事実は告げなければならず,もし,分からないなら「分からない」と言わなければならないのです。
 低周波音国賠は,裁判自体が私と大勢の原告のいわば労作です。それを「高みの見物」よろしく,「無理な訴えであったという印象を受けます」となどと呑気に言われては黙ってるわけにはいかない(私が「行き当たりばったりのことをやってる無能な弁護士」だと思われそう)。憲法21条「表現の自由」について「表現の自由市場」の確保が必要であると憲法学者が口を揃えて強調します。「自由市場」が阻害されて言論統制が行われた結果は,戦前日本やナチスで明らかです。対立する立場での言論を賢い市民が選択するというのが近代民主国家の理想です。このブログは,専門家によって世に出された「対立」する価値観と評価に対して,それと異なる立場から意見を述べるもので,「表現の自由市場」のために書いています。ネット上での議論は歓迎しますが,現行法の枠内での対立とは言え,あまりに価値観が違いすぎるので議論は成立しないでしょうね。でも,正直言って私は「被害者救済」という文字が辞書にない人とは話をしたくありません。
 最後に言っておきます。
 いつも言うことですが,参照値は,環境問題の先進国である欧州の国々のガイドラインを大きく緩めた数値であり,「何のためにあるか分からない」どころか,「何のためにもならないに止まらず,害のみがある」ものです。その理由は,殆どの被害事案の測定値は参照値以下になることです。ごく少数の事案で参照値を越えたり,達したりしますが,結局,この存在が邪魔をします。ない方がいいというのはその意味です。私が裁判,或いは,その前段階で解決に至った事案の殆ど全ての測定値は参照値以下でした。もし,このように救済された被害者が「参照値」で切り捨てられていたらと考えるとその実害は明らかです。このような害を他ならぬ環境省が生み出していることが我が日本のていたらくなのです。環境省がこのような数値を発表していることは,民事訴訟(差し止め・訴外賠償)にも当然影響を及ぼします。経済産業優先の環境省の立場を裁判官が是認するのは当然です。その意味では,こいつを何とかしないとダメだと思います。
 国賠の判決は,「環境省の行政行為に裁量権の逸脱はない」との判断に落ち着きますが,理論上,私の主張には充分な理があり,判決より理論的に勝ってます。しかし,恐らく,保守的な日本の裁判の現状では,まだまだ時間がかかると思います。昭和40年代から50年代にかけての環境保護立法・行政も現在は,大型公害事件が続出した激動期から安定期に入った一方で,保守的な集団主義的傾向が蔓延し,「揺り戻し的」な,長い「停滞期」に入っている観があります。
 参照値発表は,私の拠り所である憲法13条の「個人の尊厳」,25条の「健康で文化的な最低限度の生活」に反する行為なのです。だから,憲法に沿った理想的な在り方は,国家賠償訴訟で裁判所が毅然と違法と判断することです。現実の裁判は,被害者側が訴える環境や健康とは対立する価値・利益である経済・産業の発展との比較で判断されます。その意味で,裁判ですらそれに携わる法律家の立ち位置によって流れが異なり,結論も異なります。
 西淀川区の大気汚染を扱った西淀川2次~4次訴訟の判例評釈は,「公害事件は,伝統的な法律概念にその修正を迫る様々な問題を投げかけてきた。西淀川大気汚染事件もその一つである。判例学説は,徐々にではあるが,この問題に答えようとしてきている」(「環境法判例百選」第2版39p)と述べています。昭和42年以降の4大公害訴訟を始めとして,草分け的な弁護士の信念と情熱,そして,崇高な人格と教養をもった心ある裁判官によって,環境法に基づく環境行政の道が開かれたことを思い起こす必要があります。
 参照値は,存在してはならないものなのです。つい最近廃止された明治以来の悪法「ライ予防法」もそのような存在でした。そうです。私も参加し,熊本地裁判決に目頭を熱くしたハンセン訴訟は,大変,大変,「無理な」裁判でした。口にこそ出しませんが弁護団の誰も本当は勝訴できるとは思ってなかったはずです。例え敗訴が濃厚でも提訴しないといけないから提訴し,参加しないといけないから参加したのです。当時の日本の全ての弁護士が「無理なことはしない方がいいよ」と思っていたらどうなっていたでしょうか。先進的・革新的アクションは,その当時の世間では「無理」と言われるのが常なのです。

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