以前,ブログで音楽と水墨画,そして,法律学の『根っこ』での繋がりについて語りました。今回は,音楽の話です。このブログは私にとって最も大切な「音楽」についての深淵に少し触れる事柄です。できれば,CDを聞いてから読んでもらえると理解しやすいと思います。また,決して弁護士が書いていると思わないで下さい。そうじゃないと私が読者でも「悟ったかのようなことを,何を偉そうに!」と思ってしまいますから。そして,実際に楽器に接触していないと何を言ってるか分からないところがあるかも知れません。
今回のブログのテーマは11弦ギターを専門とする私が現在,クラリネットを習っていることに関連します。この二つは楽器と言いながら,見た目だけでなく,中身も似ても似つかない代物です。稀に,二つの楽器を使いこなす演奏家がいますが,この組み合わせはかなり珍しく,最も距離が遠い組み合わせと言えます。
今年の4月にチャリテイーCD「Happy Birthday」が完成し,5月下旬に新聞に大きく取り上げられて順調なスタートを切ることができました。
このチャリテイーCDが生まれた切っ掛けがクラリネットでした。これを始めていなければ,レコーデングをしていない可能性があり,レコーデングしたとしても挫折したか,不本意な趣味のCDで終わっていたかも知れません。
今を遡ること,3年余,クラシック音楽が嫌いになって東京や大阪に行くとジャズバーに行くのが習慣になっていました。銀座スイングで日本の代表的なジャズクラリネット奏者である北村英治のライブを何回か聴くうちに,突然,「クラリネットを習おう」と天恵のように思い至ったのです。翌週,御茶ノ水の楽器店でヤマハの楽器を購入し,高崎市内の楽器店で併設している教室に入りました。この時,他の店や先生には当たっていません,無欲の勝利です。
実は,中学時代にクラリネットとアルトサックスを吹奏楽部で吹き始めて3年生になるときには部が潰れてしまった苦い経験があります。顧問の先生(音楽教師)3年の卒業時に私を職員室に呼び,投げやりな感じで「うちのブラスバンドは風前の灯火だ,もうしょうがないね」と人事のように吹奏楽部の消滅を告げたのです。この言葉を私は一生忘れません。もちろん,彼がもう少しやる気があったら部は潰れたりしていないからです。
そんなことがあって,高校に行っても意固地な性格が災いして吹奏楽部に入らず,フォークソングの男女混成バンドを作ってラジオに出たりして,結局,2年生になったあたりから,一人で受験戦争に突入して,結局,音大じゃない大学(早稲田)へ行ってからクラシックギターとの縁が濃厚となった経過は既にブログで書いてます。
この中学時代の怨念がまだ残っていたことに驚きます。こうした思春期の怨念が還暦を過ぎて,突然,蘇り,暴挙にでるのは私だけでしょうか。後で触れますがピアノを始めたのも幼少時の怨念ですから,結局,怨念だらけの人生です。
かくして,11弦ギターは触らなくなり,クラリネットだけの音楽生活が始まりました。「どうして,ギターは触らなくなったのか」って? 当然です,一度に二つの楽器に打ち込むことなんかできません(男女の問題に通じるものがありますね)。
でも,現在は,ギターとクラリネットの二足わらじを履いています。それには,二つ理由があります。一つは,クラリネットはある程度軌道に乗ってきたので当初ほどムキになって練習しなくても大丈夫だから。もう一つは,クラリネットに対する恩義を忘れてはならないと思うからです。実は,もっと大事な理由があります。それはクラリネットを続けることは11弦ギターにとっても有益に違いないという確信です。
ここで,クラリネットの前にもう一つの楽器にも取り組んでいたことをすっかり忘れていたことに気がつきました。実は,クラシックギターをスッパリやめたあと,やはり,心に巣くう空しさに抗いがたく,間もなく,ピアノを習い始めています(あろうことかグランドピアノで,しかも,先生は地元の高校教師で音大に生徒を入れることとやたら厳しいことで有名なピアノ教師)。一応,バイエルからチェルニーの途中までやり,司法浪人中は中断,合格後,すぐ,声楽伴奏では名の通ったこれまた一流のピアニストに習い始めました。折角,ピアノを再開できたと思ったら,指導教官の弁護士にハーモニカの伴奏を命じられて,「もう10年間ギターは触ってないから無理です」と必死で抵抗したのに無理やりやらされて(久しぶりのステージは大広間の宴会場),それが切っ掛けでギターを再び始めたことで止めることになりました。この「伴奏」には『笑い話』が付いています。私がアルベジオの前奏を弾こうと思った途端,教官がいきなり「浜辺の歌」を自らの伴奏付きで吹き始めたのに,たまげたことと言ったら。普通,ギターの伴奏と言ったらアルベジオで,それに乗せて旋律を美しく歌い上げるのに決まっているでしょうに。それが『ズチャッ,ズチャッ』っていう例のハーモニカ特有の伴奏が付いていたのです。私は,慌てて追いかけるようにアルペジオで合わせようとしましたが,教官先生はギターの伴奏なんか聞いてやしませんし,元々,ハーモニカの旋律が自分の「チャッチャッ」に合わせているので,合う訳がありません。私は「何で伴奏をさせたんだい?」という腹立ちを笑いに隠して空しい「伴奏」を弾き通しました。客が聞いてくれないことは数え切れないくらい経験していますが,伴奏相手が聞いてくれないのは後にも先にもこれだけで「笑い話」として成立する所以(ゆえん)です。
この事情(「笑い話」以外の)をピアノの先生に話して僅か半年のレッスンは終わりを告げました。この先生は,なぜか私のレッスンを大変楽しみにしてくれていたので心が痛みました。がしかし,この先生はピアノ教師として「ただ者」ではありませんでした。ピアノは初級者に過ぎない私に,鍵盤タッチの極意を教え込んでくれていたのです。何ヶ月もの間,私は,ひたすら,ピアノの前に座って,指を鍵盤の上に準備して,音を出したくなる瞬間を待って,瞬時に指を降ろすという動作を続けました。こうして私は,演奏における「キレ」とは何かを知ったのです。これはボクシングのジャブ,テコンドーの突きの動作にも通じます。この「キレ」は完全な脱力なくしてあり得ず,打鍵の前に待つことによって脱力の極みを感じる訓練を私に施してくれたのです。これは超一流の指導であり,かつてはギタリストを目指し,かつ,司法試験を突破した私に最大限の敬意を払ってくれた結果だと感謝に堪えません。こうして,私の演奏家デビューは,先の「ハーモニカ教官」を含めて色々なタイプの恩人に支えられているのです。
純粋に音楽表現について言うと,ピアノやクラシックギターには絶対不可欠な「キレ」はクラリネットでは若干ニュアンスが変わってくると思います。恐らく,クラリネット特有の「歌い方」はこのあたりに関連していると思いますが,ギターもピアノも取りあえずは指をそれらしく動かせば音は出ますが,クラリネット,トランペット,フルートはまず音を出すことが最初の課題です。しかし,ギターの場合,「芯のある,かつ,柔らかい,深い音」を出すことが本当の課題で,これを満たさないと,いくら上手そうでも本物の演奏家とは言えません。
例えば,今をときめく美人ギタリスト村地佳織の演奏は,正に,「キレッキレ」です。一流の演奏家は例外なくそれぞれの「キレ」を持っています(従って,一般のアマチュアや一部のプロには「キレ」はありません)。
こうして途切れ途切れで数年にわたるピアノの勉強は終わりましたが,音楽表現という点では大変有益でした。実は,11弦ギターには様々な「手強さ」があり,この「キレ」も大きな関門の一つで,これが足りないと6弦ギターがいくら上手くても通用しないのです。
しかし,考えてみたら,ピアノはギターに一番近い楽器ですから,ある意味,相性は余りよくなかったかも知れません。こうして,私は,幼少時のヤマハ音楽教室から数えて3つの楽器との縁を持っていることを改めて確認しましたが,どの楽器もそのときは「一筋」で,二股をかけていないことが信条です。
最初に,クラリネットを始めたときは,出張にも楽器を持ち歩いてホテルで練習していました。この頃は,単純に音を出す練習(ロングトーン)が中心です。楽器というのは,初心者段階では毎日やってないとちっとも進まないんです。その甲斐があって,3回を数えた発表会では,本格的な協奏曲に挑戦してそれなりの(勿論,技術に応じた)演奏ができました。
さて,話はこのあたりから深いところに入っていきます。トランペットやクラリネットのような管楽器は基本的に「線」の音楽を表現しますが,クラシックギターやピアノは,旋律に和音やアルベジオ,副旋律が複雑に合わさって「面」の音楽を表現します。その意味で,クラシックギターやピアノは神経質な感じで肩が凝ります。大らかに旋律を歌っていられないのです。辻幹雄師匠からいつも言われていたのは,「ささやん(私の旧姓)は歌いすぎる,歌わなくても音楽が表現してくれるから」ということでした。音楽である以上,歌うのは当然なのだけれど,歌い方が間違っているといたのです。
私が,20代の時にプロを目指すと言いながらクラシックギターが心底好きと言えなくて鬱々としてしていました。クラリネットのように無邪気に歌えない神経質なところが引っかかっていたのかも知れません。「この楽器が心底好きだ」といえる奏者はたくさんいると思いますが(表面では分かりませんけどね),「分かる分かる」と共感してくれる演奏家はきっといるはずです。
ここから核心に迫ります。クラリネットを練習し始めて2年を過ぎた頃,何気なく,11弦ギターを弾いたら(触るのは2年以上ぶりです),うまく弾けないだろうと思いきや逆に上手くなっていたのです。音楽をやっている人なら分かると思いますが,「達者になる」とか,「指が速く動くようになる」とかじゃなくて,表現のレベルで明らかに何かが変わっているのです
2年も触ってないと,左指の腹がフニャフニャで弾きづらいことこの上ないけど,なんと言っても,技術も表現力もレベルアップしているので,気を良くして,少しずつ弾き始めて,昨年の夏頃,辻師匠にCDのレコーデングをしたいと決意を語ったのです。それから半年以上をかけて発表にこぎ着けました。
クラリネットの練習に取り組むことによって,ギター特有の指使いによる癖が改まりニュートラルになったこと,そして,線の楽器を演奏することで下手に旋律を歌わなくなったことも大きいでしょう。
私が,クラリネットを教わってまず気づいたのは,クラリネット独特の歌い方があることでした。それは線の楽器であることと関係があります。和音もアルペジオも副旋律も持たぬが故に,要所において豊かに歌わなければ音楽にならないのです。
私が,クラリネットを止めないのは私なりの音楽に対する「仁義」もありますが,それだけではありません。恐らく,敢えて,全く奏法が異なる楽器を習うことは専門家を目指す人にとってとても効率のよい練習法なのです(恐らくどこかの音大でやっているはず)。
私がプロ・アマ問わず,参考になるだろうと言うのは,行き詰まったときの脱出法として有効であるということです。但し,そのまま折角取り組んできた楽器を止めてしまうことにもなりかねないのでリスクはあります。
その昔(師弟共に20歳代),辻師匠が「練習しないで上手くなる方法がある」とトンチのようなことを言っていましたが,このことだと今得心しました(20才ちょっと私にはそんなことを言われても困りますけどね,若い頃の辻幹雄は当時の弟子達にとっては年の差も殆どなく「兄貴分」的存在でしたが,スピリチュアルがかっていて,かっとんだところが多々ありましたから,そのようなエピソードには枚挙に暇がありません)。
音楽の世界(特にクラシック)では,先生との相性が非常に重要で,合わない先生に習っているとどんどん下手になりますし,音楽的運勢も下がっていきます(技量が下の立場でそれを判断するのは大変難しいですが)。「音楽修行は師匠選びに始まる」と言って過言ではないのです。私の場合,当初は,ジャズ音楽に逃げようと思ってクラリネットを始めたのに,クラリネットの先生が「超」がつくほど真面目で純粋なクラリネット奏者だったため,あっという間に,クラシック音楽が再び好きになりました。今思うとなんで嫌っていたのか分かりません(近親憎悪ってやつですね)。
もし,スタンダードジャズを始めていたら,つまんなくなってクラリネット自体を止めたかもしれません(所詮,私はガンガンアドリブをかますタイプではないので)。前回の発表会は,フランス印象派,現在は,ゴリゴリの古典,ウエーバーの協奏曲に取り組んでいます。生真面目すぎて嫌われる傾向にあるそうだけど僕は古典らしくて大好きです。それに比べて,11弦ギターは心から楽しめないのかもしれません。宿命的に凡人の音楽家は自分自身が楽しむことはできないのです。
師匠の辻幹雄は,以前,ある地方でのコンサートで,「大切なのは,正しいかどうかではない,深いかどうかだ」と語りました。
音楽の分野だけに止まらず,今の時代は,「深さ」がないがしろにされる傾向にあります。音楽の世界では,楽器を演奏する技術(メカニック)は,深い音楽を表現するために必要なのであって,技術が先行して目的化していくことはあるべき姿ではないのです。この辺は,記録や順位によってその時々のチャンピオンが決まるスポーツとは決定的に違うところです。
音楽,というか,芸術の分野では,技術を極めて行く過程で,極めれば極めるほどこの課題に突き当たるのではないかと思います。私がかつて「夢破れ」「挫折し」たのはこの「技術」という課題に潔く見切りをつけたためです。技術がこれ以上向上しないのならもう駄目だと。この若く未熟な時代には,潔さ(いさぎよさ)が大切であり,この潔さこそがその後「立つ瀬」を得ることができた理由だと思っています。
しかし,その人の姿勢,生き方,人生の有り様によっては,拙い技術でもそれを存分に生かして「深さ」を表現することは可能だということを,大学時代に私をプロの道に導いた辻さん自身が40年後の今,そのことを教えてくれました。いやそうではなくて,別の道でひたすら精進すれば,自らの奥から湧き出てくるものを表現するための技術が自然と付いてくるのかも知れません。
私は,若き時代に「潔さ」を自ら決断した結果,40年後に再び,「専門家」の端に身を置くことができました。この「潔さ」,「諦め」という言葉に置き換えてもいいことは,あらゆる分野,あらゆる場面で必要です。これができないと,そこで停滞する法則が存在します。
このブログを,現在,音楽修業に向かっている子供の保護者,修行中の学生,或いは,専門家を目指している奏者の方々に読んで頂ければ嬉しく思います。そして,色々な境遇の人たちがそれぞれの分野でその世界の「深み」を是非とも味わってほしいと思います。