家庭裁判所で約3年を費やした審判と裁判が二つ同時に決着しました(法律家はそれを「判決が確定した」と言います)。この表裏をなす審判と判決は,そのうち,判例集に掲載されると思いますが,ブログに書かない手はないので書きます。
前回のブログでは,意見書を提出して家裁手続の流れを大きく変えた(ほぼ反対方向に)経過を掲載しましたが,今回は,同じ路線ですが,高等裁判所の決定と地裁判決という形に結実したので書き甲斐があります。
他のブログを見て貰うと分かるように,私はとにかく権力に楯突きます(習い性というしかありませんが),そんな性格のために私はいつも損ばかりしている気がします(確か,漱石の「坊ちゃん」は,そんなくだりで始まったような)。今回は,裁判所の理解と支持を得て,「司法」の根幹に触れる貴重な経験ができて,久々に法律家として充実感を感じることができました。このように立場が異なる法律家が一体となって司法の世界に一つの足跡を残すことができることがたまにあります(ハンセン訴訟がそうでした)。これこそが法曹の最高の醍醐味であり,だからこそこの仕事をやっていられるように思います。
当初は,正に,過去の審判を覆そうとする原告に対して風当たりは強く,この逆風が徐々に追い風に変わってきたように思います。最初に戻るほどストレスとプレッシャーが大きく,徐々に裁判官の態度が変わるにつれ段々楽になりました。権力に楯突いてもたまにはいいこともあるもんだと実感しています。
このブログも離婚した母親,或いは,別居中の妻が父親または夫から子どもの面会を求められているが拒否したい,或いは,拒否している,という状況で妻・母親から依頼を受けて弁護活動をしてきた立ち位置で書いています(勿論,夫,父親の依頼者も大勢います,誤解なきよう)。
前回の「DV,特番」はバリバリのDV事案でしたが今回は違います。違いますが,母親には父親からの面会要求を拒否する正当な理由がある点で共通しています。 しかし,このケースでは,今を遡ること5年前,家庭裁判所が月一度の面会を命じる審判を下しています。つまり,「もう時既に遅し」です。この審判自体はやむを得ない結果で,この審判自体を批判するつもりはありません。なぜというと,その時点では,母親も知らないある「事情」が,その「事情」ゆえに家裁の手続において考慮されることなく結論が出てしまったからです。
その「事情」は,時の経過により子どもらのメンタルが安定した時点で子ども自身が母親にちょっとした切っ掛けで独白して明らかになりました。母親は弁護士を立てて戦おうとしましたが,うまくいかず,やむなく,実力行使で面会を拒否する手段に出ました。これに対して「審判」という『錦の御旗』を掲げて家庭裁判所に臨み,遂には,間接強制という『伝家の宝刀』を振るう父親の反撃は圧倒的でした。母親はただでさえ異常に少ない養育費を大きく上回る額の給料を差押えされ,父親は子どもに会えない代わりに結構な金額の収入を得ることができるようになりました。その額は将来まで計算すると数百万円に上ります。審判がどうであろうと,そのような事態が著しく正義に反していることは明らかです。ここで青臭く「正義」を振りかざしても,一般論としては,家裁の審判が「正義」であり,それに逆らう方が「不正義」であることもまた確かです。ここで2種類の「正義」が登場です。身も蓋もないことを言っちゃいますが,勝ったほうが「正義」という考え方もありますね。
さて,ここで考えましょう。この状況で,母親はいったい何をなするべきか,するべきではないのか,裁判所の審判に従うべきか。相談された弁護士はどう応えるべきか,審判に従うよう助言するのが正しいのか,そもそも,この母親は間違ってるのでしょうか,「審判に従わないからいけないのだ」と。
本当は,是非「弁護士さん」には考えて貰いたいところです。果たして,法的にも,心情的にも,この母親を支持する弁護士が果たして何人いるでしょう。私は,無差別に選んだ弁護士100人の中に一人もいないと確信します。
恐らく,相談を受けた弁護士の殆どは,「諦めて面会させなさい,何と言っても審判があるのだからどうしようもない」,さらには,「あなたは父親に面会させる義務がある」と叱りつけ,母親が訴える「事情」に耳を貸そうとしないことでしょう。なぜなら,「審判」は法治国家の国民たるものすべからく従わなければならないものだからです。それは正しい,一般論としては。現実に,私の依頼者は,証人尋問で父親の代理人から「あなたは裁判所が下した審判にどうして従わないのか」と質問の衣を着せた非難を浴びせられました。
ここで種明かしです。『変人扱い』されたりして(多分?),大変,大変,苦労しましたが,強制執行の不許を求める請求異議訴訟の裁判所は,「面会拒否に対する強制執行は,基本的には正当な権利行使であるけれども,この件は『権利の濫用』にあたり許されない」と判決を下しました。二つの手続は群馬県の2大都市の裁判所でそれぞれ審理され,どちらかというと(当然のことですが),面会交流の中止を求める審判(調停)の動向を訴訟の裁判官が見守る形で進行し,ほぼ同時に,やや面会交流の方が先行して結論が出されました。
第1審の審判では,5年前の審判が覆されて,直接の面会を拒否することが正当化されました。東京高裁は,審判を是認するだけでなく,5年前の審判まで変更するという有り難い贈り物まで付けてくれました。
私が予め,『間接的交流』,つまり,定期的に手紙と写真を送るという交流を実行しておいて,直接的な面会を否定する素地を作っておいたことが功を奏しています。本心は消極的な母親を説得して実行して,裁判官の心証を良くするようにしました。結局,「面会交流は何のためにするの?」「子の福祉の実現のためでしょ」という根本に立ち返った正攻法が裁判官に通じたのだと思います。少し,差し出してより大きなものを得る(肉を切らせて骨を切る)作戦ですが,それも根本に立ち返るからこそ出てくる選択でした。
敢えて,詳しいことは書きませんが,審判を覆す結果をもたらしたある「事情」は,その「事情」のもとで面会交流を実施することは「子の福祉」に反する結果をもたらすものでした。私は,この「事情」を家裁の手続上に出すことによって,必ず,不正義な結果をもたらしている審判を覆すことができると確信しました。具体的には,調査官が子どもに面接を行った結果に基づいて意見を述べた報告書が本件の方向を大きく舵を切る契機となり,その後は舵どおりに舟が進行してゴールに着きました。昔,『家裁(栽)の人』というコミックが評判になりましたがそこで活躍したのが家裁調査官です。実は,私は,当初,担当の調査官に実に厳しい態度を取ったのに適切な意見書を書いて貰って凄く感謝しています。
この事件は,本来は法的な保護と援助を必要としている当事者に,弁護士が,裁判官が,法律が,結果として二次被害を及ぼしてしまう可能性があることを示しています。そして,その「二次被害」について責任をもつ人は誰もいないというのもまた現実です。今回の事件でいうと,対立する当事者それぞれの弁護士の弁護活動を吟味して裁判官が判断した結論が審判として出されますが,母親側の弁護士の活動は法的に不適切な活動とは評価されないし,当然,裁判官は全く中立で妥当な判断をしているとしか言えません。そしてまた,法律にも一応適っています。結局,この不正義かつ不公平な状況は,法律も含めて全員の「合作」の結果であり,しかも,誰も明確な間違いは犯していませんし,非難を受けることもありません。明確な間違いは犯していませんが,洞察を,或いは,洞察しようとする姿勢を欠いた点は,決して褒められたことではありません。私はそれでよしとする気は毛頭ありません。
本件のような場合,法律の手続にかかわる誰かが,然るべき時に,ある事情で埋もれていた事実に気付いて,法的な見地から既にできてしまったルートを是正する可能性を見出して,然るべき手段をもってひたすら邁進するしかありません。例え,それが権力に楯突く仕儀であろうとも。
弁護士がどうこうという前に,まず,本人自身が自らの行動に確信を持ってそれを貫く姿勢とそのための最善の選択をすることが必要であることをこの事件の依頼者が示してくれています。今回の件では,私の依頼者は結果として二次被害を受けながら最後まで諦めなかったから今回のような結果が出せたと言えます。
もちろん,特に拒否する理由もないに,「会わせたくないから」とか,「浮気した人になんか子どもを会わせたくない」という理由で面会を拒否したら,「普通に」負けます。その時は,弁護士の指導に従って面会を実行した方がいいです。給料を差し押さえられちゃいますから。