今回の記事も一旦,家裁が出した面会実施を命じる審判が変更されて,直接の面会を否定して,写真の送付という限定的な交流を命じた審判である点で画期的です。日本では,非監護親の面会が制限されることは極めて例外的だからです。
最初の家事調停から7年を経て,結果的に,出来れば面会を拒否したいという当初の母親の意向を裁判所が認めた形となりました。ずっと以前に,震災による復旧が追いつかず,バスで不通区間を乗り継いで東北地方の家庭裁判所に通った事案は,典型的なDV事案でした(これもブログに書きましたし,私が書いた意見書を添付しています)
本事件は,認知した父親が婚外子との面会交流を求めたが,母親の父親に対する信頼感の欠如と面会の実施に協力が不可欠な母親の両親との不和がネックとなり,何とか面会の実施に努めようとする母親側の努力とは裏腹に,家裁で標準とされる面会方法に不満を抱いて一層の充実を求める父親の過度な要求のため,折角,継続していた面会が頓挫する事態が繰り返し生じて,父親側から3回の調停申立と母親側からの面会中止を求める調停申立,そして,2回の審判が行われています。
最後の審判が一旦,家裁が出した直接の面会交流を否定して間接交流に変更して7年という長い年月をかけた面会を巡る紛争に終止符が打たれました。
母親側が結局は譲歩して面会交流の実施と継続に努めたにもかかわらず,このような紆余屈折を重ねた挙げ句,ついには,標準的な直接の面会交流さえ否定されてしまうという結末を迎えたことには大きな理由があります。この父親は,母親にDVを行ったり,子供を虐待したこともなく,『面会交流の実施』が原則である家裁実務では,いかに母親が拒否しようとも最終的には家裁が面会実施を命じる事案です。だから,母親の代理人である私は,養育費の支払という責任を果たさせた上で,標準的な面会交流を実施する方向で母を説得しましたし,裁判所も1ヶ月1回の面会を命じる審判を出しています。
父親が若い時期に日本に来てそのまま日本に在住しているアメリカ人であることが大きく影響しています。それは面会交流を単に父親の権利としか理解できず,親同士の信頼関係,さらには,協力者である監護親の老親に対する信頼や敬意という観念が全くないため,結果的には墓穴を掘ってしまった観があり,自ら招いたこととは言え少し気の毒な気持ちがあります。
なんと言っても決定的だったのは,面会中に小学低学年の女の子に対し,理詰めでもっと父親と親密になるよう問い詰めたことです。その様子が発覚した面会の前の面会後に帰宅した子供の様子がおかしいため,母親が子供のリュックの中にレコーダーを忍ばせたため,子供が泣きじゃくる様子がまざまざと分る録音を聞いてびっくりして代理人に相談し,直ちに,面会交流の中止を申立て,審判で母親側の要求を全面的に容れた審判が出されたというわけです(因みに,裁判所が間接交流すら否定する例は殆ど存在しないと思います。間接交流すら超例外的ですから)。
父親側は最後まで,アメリカ流の(多分)弁論を繰り広げて,彼にとっては最悪の結果を招きました。恐らく,申立てた段階では,まだ直接の面会再開の途は残っていたはずです。もちろん,子供の様子を見ながら,再開に向けて徐々に信頼関係を回復しつつ,試験的に実施しながらという非常に慎重な過程を踏む必要はありますが。彼が権利を前面に構える姿勢を最後まで貫いたことがやぶ蛇となりました。実は,子供の健全育成のため,子の福祉を実現するために面会交流を実施するというのが基本的な考え方であり,父親はその反射的な利益として享受できると考えるべきなのです。
そもそもの切っ掛けが標準的な交流では満足できず,彼が望む濃厚な交流を『権利』として行使したことでした。果たして,アメリカの家裁実務がどこまで日本と違うのかは知りませんが,恐らく,日本よりずっとドライで割り切ったものであろうことは想像に難くありません。『郷に入っては郷に従え』という諺はアメリカにはないかも知れません。開拓民が造った国であり,移民社会であるかの国では,自分の権利は戦って勝ち取ることが当然なのでしょうか(基本は日本も同じですが)。
最後に,法律論に立ち返って,この記事を終りたいと思います。
前回も私は,裁判所の審判を覆して依頼者の希望を叶えることが出来ましたが,今回もほぼ同じ軌跡を辿ることになりました(ただ,父親の悪性という点では全く事情は異なり,この父親には「悪性」を語る要素はありません)。
私が判決に等しい裁判所の審判を覆した論理は非常に簡単です。最初の審判が根拠とした「原理原則」を使って,この「原理原則」に拠る限り,この結論に至るしかないという論理展開をすることです。
弁護士がこの「原理原則」が『両刃の剣』であることを知らずに,徒に振り回すと,自ら(相談者,依頼者)を切り捨ててしまうのです。比喩的な表現になりましたが,日本の家裁は,『子(未成年者)の福祉』という伝家の宝刀によって判断します。
日本の家庭裁判所は,親権の決定と面会交流については,この原理原則に徹底的に拘ります。従って,生半可にこの『宝刀』を使うと,本来は直接の面会が制限されるべき事案なのに,面会交流が命じられることになり,正に,やぶ蛇です。『面会交流実施の原則』という実務上のルールは,さらに上位の原理である『子の福祉』から導かれるのです。さすがに,典型的なDV事案であれば,DVの実態をある程度証明すれば,「子の福祉」の観点から面会は制限されると思いますが,最近の2回の事案は,『子の福祉』の両刃性を充分に認識しないと見過ごされがちです。
本事案で母親が代理人にも言わないで密かに録音したのは,代理人との長年の付き合いで,家裁実務の原理を理解していたからだと思います(普通の人なら録音なんかしていいのかなと二の足を踏むところです)。 この二つの事案で共通していることは,密室での出来事であり,表に出にくい事実を母親が察知したことから画期的な展開を遂げた点です。この隠れた「事情」を考慮しなければ,『子の福祉』の観点から面会が継続されて,『子の福祉』が取り返しが付かないほどに損なわれてしまったはずです。
この事情を裁判官や調査官に察知しろというのはドラマの世界では通用しても,現実には無理で,裁判所を非難することはできません。代理人の弁護士が依頼者と共に切り開くしかないのです。
こう書いていくと,私は,いつも,面会を否定する弁護士と誤解されそうですが,そんなことはありません。不当に面会を拒否されている母親,父親のために,「伝家の宝刀」を存分に振るって面会を実施,継続することは当然です(ブログに書かないだけ)。
以上,何らかの理由で面会交流の実施に問題を抱えた監護親(母親とは限りません)に希望の光を灯せればと思い,ブログにあげました。