これまでの私自身の相談事例や依頼案件で,基本的に次のように理解していました。被害発生の機序を単純化して定式化するとこうなります。
A『低周波音が被害者宅内に到達(欧州ガイドラインに達するレベル)』
↓
B『不眠,動悸,吐き気,鬱症状等の自律神経失調症類似の症状が発生』 ↓
C『音源機械の撤去等によって低周波音が消滅』
↓
D『音の消滅・低減と同時にBの症状が消滅』
実際の相談事例をこの定式に当てはめると次のようになります。
①音源機械が2mの距離にあって低周波音が相談者宅内に相当レベルで到達している→相談者が訴える症状は,隣家の音源による低周波音が原因である→移設・交換によって低周波音が消滅・低減すると同時に症状は消滅する。
②音源機械(例えばヒートポンプ)が相談者宅開口部から10m以上の距離があるため,低周波音が相談者宅に到達していない(「聞こえる」と被害を訴えるので測定したら室内では音が計測されなかった)→この場合は,「A→B」が断絶するので,相談者の訴える「音」は,「耳鳴り」その他の原因による聴覚障害である。
ところが,定式通りに行かない事例に遭遇します。
③2mの距離内にある音源機械の稼働と同時にBの症状が発生(A→B)。ところが,音源機械を移設・撤去したのに(A→B→C),症状が継続する場合があります。つまり,Dの前で断絶する例があります。
このような事例は決して多くなく,かなり珍しく例外です。殆どの場合,音源を撤去すれば症状はなくなります。ところが,問題のヒートポンプが10mどころか,15m離れている状況で2mの事例と同じ被害を訴える相談例も決して少なくないというのもまた事実なのです。このような場合に,実際に測定して「このとおり,音はありません。他の原因を考えてください」と説得したことが何度もあります。
②の事例の場合は,最初から低周波音が原因ではないため,「他の原因(ストレス等)による耳鳴りや自律神経失調症です」と説明することができますし,それも一つの「解決」です。
しかし,①にならないで,③になってしまうとさすがに私は途方に暮れてしまいます。もはや,法律家の仕事ではなくなってしまうからです(医師かカウンセラーの領域です)。
以前も,応急的にカウンセリング的な対応をしていましたが,今回は一歩踏み込んで私なりの「知見」を記します。
③の場合に,いっそのこと,「最初から低周波音は原因ではなかったかもしれません」と言ってしまうと楽ではありますが,①と②の定式は崩す訳にはいきません。少なくとも,位置関係と時間的関係が存在する以上(同時性),当該症状は低周波音の可能性が高いという結論は基本でありこれを崩すことはできません。
そうすると,問題は,原因がなくなったのに結果だけが残る合理的な理由を見つける必要があります。
そこで,私は,以前から何となくあった「直感」を仮説として立てて,その科学的根拠を探してみました。以前の直感は,「低周波音が原因として生じた症状が『形状記憶合金』のように,原因がなくなった後も残ってしまう」ということでした。 これは,千曲川べりに終の棲家を求めて東京から移住した被害者(70代後半)の実話です。折角,隣家が調停で打って変わって好意的な態度で解決策を講じてくれたお陰で完全に音は届かなくなりました。当初は被害者宅から6~7mの位置にあったヒートポンプが隣家住宅の反対側に移動し,距離で10数m,住宅を回り込む形になるので運転音が被害者宅内に到達しないことは間違いありません。ところが,以前と変わらず音も聞こえるというのです。 このケースを解析すると,前記機序「A→B」については,厳密には二通り考えられます。測定値は,裁判で争えるレベルに達していますが,個人差を考慮すると,当初からヒートポンプ以外の原因(ストレス,高齢等による聴覚障害)であった可能性はゼロではありません。しかし,私は,低周波音による被害事例として扱いましたし,その点は今も間違っていないと思っています。だから,ここでは,「A→B→C」で断絶し,「D」にならず,客観的に音が消滅したのに症状が持続している場合として考えます。
私の仮説は,耳鼻咽喉科の専門医による知見によって裏付けを得ることができました。
専門医による解説を次に要約します。
*「難聴・耳鳴り」という二つの症状は背中合わせで同時に生じることが多く,「耳鳴り」とは常時,「キーン,ジー,ゴー」といった煩わしい音が聞こえている状態である。
*「耳鳴り」を伴った「難聴」には,血流悪化やストレスによる「急性音感難聴」と加齢による障害騒音や騒音によって生じる「慢性音感難聴」とがある。難聴は,脳のトラブルであり,ストレスによって自律神経に乱れが生じている状態である。*難聴の治療は,外科的治療やステロイド等の内服治療は,試行的,不完全であり,回復する場合のメカニズムも不明である。
*耳鳴りによる苦痛の程度は,耳鳴りに起因する不安やそれへの意識の集中など心理的なことに左右され,カウンセリングなどによる心理的治療によって苦痛軽減も期待できる。
低周波音によって生じた自律神経失調症的症状が音源撤去によって少なくとも自宅内では低周波音が消滅したのに症状が消えない理由は,「難聴・耳鳴り」の症状が音源撤去後も継続しているからであると考えるしかありません。
被害者は,エコキュートの運転音に曝され続けたため,難聴と自立神経失調症の症状が生じ,脳の誤作動によって音が聞こえ続け,症状も継続していると考えれば,いくら私が,「もう音は届いていません。だから,もう音は聞こえないはずです」と訴えても,被害者が「いや,音は届いているし,今も聞こえている」と言うのは当然です。音の消滅を示す測定記録があれば,一層,混迷を深めることになります。 この場面で,弁護士が「難聴・耳鳴り」を前提とした説明を行わず,依頼者もまたそれを理解しなければ,両者は対立し,いがみ合う結果になりかねません。私が上記のような仮説を立てるしかなかったのは理解して頂けると思います。
そして,この仮説(知見)を前提として,音源(ヒートポンプ)が撤去され,或いは,音源との距離が遠い(8m~10m以上)ために,低周波音が室内に浸透していない場合に,「音」が聞こえ,かつ,症状がある場合の対処方法は何か,ということが大きな課題となります。
特に,前者(音源撤去)の場合は,ストレスによる難聴であり,一旦は低周波音問題を離れて,治療方法を検討する必要があります。そして,前記のように,専門医すら,「発症原因」や「回復のメカニズム」が不明であり,治療も試行錯誤であると言っている訳ですから,我々自身が知恵を絞るしかありません。
まず,症状を惹起した音源がなくなったこと(当初よりないこと)及び外部には音がないことを認識することが出発点です。次に,現在,聞こえている「音」は,脳の作用で「聞こえている」ことを理解することが大切です。しかし,これは「理屈」であり,本当に心から理解することは大変難しそうです。このあたりの作業は,「治療」を施す立場では,「カウンセリング」に該当しますが,被害者自身は,冷静,かつ,客観的に状況を認識するよう努める必要があります。
専門医も患者の心理面や意識のあり方が症状に影響していると言っています。元々,ヒートポンプの音によるストレスが原因で生じた脳の誤作動(トラブル)であるならば,理性的に,知的に,正しい状況を認識すれば,脳の誤作動が正常化する可能性があると思います。また,ストレスが原因であれば,現在,現実に音源が撤去され(存在しない)ことを認識することは,ストレスの軽減に役立つ可能性があるのではないでしょうか。
長期間かけて生じた症状ですから,ゆっくりと,縺れた糸をほぐすように丁寧に直していく姿勢が必要です。