弁護士が自由の森学園中学高等学校の教員にいじめ問題講義を行いました

2018年6月11日

~「いじめ劇場」解消に向けて~
 平成30年6月6日午後2時より約2時間,自由の森学園中学校・高等学校の教員約30名を対象として,「いじめ問題」の講義を実施しました。教師の立場では,大変耳が痛い,と言うより,指弾されていると感じてもおかしくない講義内容であったにもかかわらず,全体として(特に,若い先生方)熱心に聞いてくれたという印象を持っています。このブログは,講義の報告を越えて,ブログ自体が具体的ないじめ事件についての問題提起を行っており,それは講義の内容がベースになっています。従って,添付している講義レジュメを先に読んで頂いた方がいいかも知れません。いや,是非とも先に読んで下さい(ブログが当初よりも私自身の思いがこもったものになってしまったので)。
 このような講義を行うことになった発端は,関東圏内の某県某市在住のA夫妻から長男(13歳,仮にS君とします)が小学校で教師によるいじめのため不登校になっている問題について相談を受けたことでした。
 相談を受けたのは,卒業を控えた本年3月ころ,ヒステリーと覚しき担任女性教員のストレスの捌け口にされたとしか思えないいじめの実態があり,この教師以外にも他の教員,校長,教育委員など,S君いじめの「サークル」が構成されていました。意地悪をしているとしか思えないような学校側が設ける障壁を何とか乗り越えて卒業式を初めとした様々なイベントに出席して卒業にこぎ着けたS君ですが,中学校進学を目の前にして,本当は地元の中学校に行きたい気持ちを押し殺し,埼玉県の郊外に所在する独自の校風で知られる私立中学校へ進学することを両親と共に決断しました。私が彼らに自由の森学園を紹介したことが,私とこの学校との運命的と言える2度目の関わりをもたらしました。やはり,地元の中学校を不登校で過ごした私の息子が卒業したのが自由の森学園高等学校でした。ここからは,同学園の関係者が呼び慣らしてきた「自森」でいきたいと思います。
 S君は初めて見学した自森に少なからぬ希望を抱いたようです。誰しも初めて自森を訪問すると,何よりもあの立地,山の懐に抱かれた自然溢れる閑静な環境に学校があること自体に驚きます。そして,彼はこの学校独特の授業や課外活動にも強く興味を引かれ,彼なりの新たな夢を抱いたようです。S君親子だけでなく初めて自森を訪れる多くの人が感じるこの学校の特色は,確かに,昔も今も変わらぬ自森の紛れもない長所であり,画一的・集団主義的な日本の学校教育の世界に光を放っていることは紛れもない事実だと思います。しかし,この世のあらゆるものには,光と影があります。恐らく私の講義は,普段は滅多にその様相を表に見せることがない自森のネガティブな部分を示すことになるかも知れません。
 ネット上で,自森を検索すると,最近人気の俳優・ミュージシャンの星野源やタレントのユージ,北の国からの俳優吉岡秀隆ら芸能人やミュージシャンなどの有名人を輩出しているのは「光」のほうですが,一方で,「自由の森学園の崩壊」という本が出てたり,「不良・ヤンキーにとって天国」「不良やヤンキーが幅をきかす学校でおとなしい子(特に不登校の子)を行かしてはいけない学校」という書き込みがあるのは「闇」のほうです,プラスマイナスゼロというわけにはいきませんね。特に,「おとなしい子」とその親にとっては。結局,学校に行かないまま卒業したり,退学した家にとっては,随分不公平な話で入学金や学費は結局,不良やヤンキーらを筆頭に「おとなしくない子」のために払ってるようなものですから。因みに,不良とか,ヤンキーとかっていうのは,「それっぽい」という意味に過ぎす,また根拠がある話ではないので気にしないで下さい。ただ,15年前に息子のクラスでそれっぽい生徒は確かにいたようですし,息子は害を受けていました。
 このような強烈なプラスとマイナス要因を内に引き込んでそれをエネルギーとするこの学校には,恐らく,本来の意味でのリーダーシップというものは存在せず,生徒とそれをサポートする教師らによって自治的に運営されている学校と言えそうです。ネットで「まるで大学のような学校」と評されているゆえんです。自森を中立的な立場で見ると,画一的な管理教育でガチガチの日本学校の中にあって希有な学校であることは確かでその意味では,この学校をなくすことは日本にとって大きな損失であると私も思います。しかし,立場を「おとなしい子」に転じると話は変わります(実は,私は,基本的に両立場を包容する立場で論じていますが,いざとなると,と言うか,根源的には,当然後者です,講義で立憲主義憲法と人権の話をしたはずです。それに私の息子は結局ほとんど自森には行かずに卒業してますから,憲法を持ち出ささなくても後の方なんですよ)。
 そうです。一部の(弱い方の)生徒を犠牲にして集団側が存続している,そんな不公平なことは許せません。見逃すわけにはいかないのです。そんな文脈で言うと,このブログは,自森関係者を敵味方に二分して対立関係を生じさせる可能性があります。つまり,自森で学校生活を全うした「自由の森」を享受し満喫した生徒と,自森から何らかの理由と経緯で離脱した結ため学校生活を享受できなかった生徒とに立場の対立関係を私が生み出すことになるかも知れません。
 確かに,無造作には,理念なき感情論では,そうかも知れない。しかも,圧倒的多数派(集団)と孤立状態の少数派です。しかし,それでは,いじめの構造と同じになってしまいます。従って,この対立は現実には起きません。「正義はわれにある」からです。私がこのブログで訴えている立場は,正義そのものであり,何人も抗うことはできないのです(少なくとも現憲法施行後は)。そして,誰だって,自分が,自分の子が卒業した学校が泥にまみれることを望まないはずです。弁護士でもある私は,この不公平かつ人権侵害的な自森の現状が大きく改善しないかぎり,このブログによる世論への働きかけだけで満足するわけにはいきません。私の本来のフイールド(言わなくても分かりますね)で「落とし前」を付けることになります。息子の際には,レポート提出で卒業させて貰うことで学校との折り合いを付けましたが,今回はそういうわけにはいきません。S君が切っ掛けで,その昔封印した問題意識が解き放たれたのは皮肉なことですが,私はむしろ,それを運命と感じます,それ以上に,神の采配とも。
 私の息子は,「おとなしい子」の代表でした。そして,彼が「おとなしくない子」と,そして「集団」と対峙し戦うという選択をしなかったのは当然です。当時の私は承知で受け入れました(今,その深く苦い後悔が私を突き動かしてこのブログを書かせています)。卒業時に,高校の校長先生から証書を受け取った時の複雑怪奇な感情は今でも忘れません。勿論,校長先生に感謝の意を表しましたし,それはそれで本心でしたが,同時に何か納得できない気持ち(クラスの不良っぽい生徒を筆頭に他の生徒,担任等の教師たち全部に対してです)が心の底にあったことは確かです。当時,私自身はこの自森が好きでしたから,「愛憎こもごも」って感じですね。 
 さて,話をS君のことに戻します。彼には大変過酷な現実が待ち受けていました。入学式に続くわずか数日の間に,S君の希望と夢はずたずたに引き裂かれます。S君は初日から毎日数名の生徒から叩かれたり,ブランコから落とされるなどのいじめを受け,担任の先生や校長先生に助けを求めても取り合ってもらえず,親を通じて対処を求めても彼らの態度は変わらず,担任その他の教師は,S君の目の前で当の生徒に「(S君に)近づかない,触れない,話さない」と注意をしたそうです。母親がそのことを校長先生に訴えたら,「学校ではトラブルがあったらこの様な対応をしている」と堂々と答えたそうです。
 自森には,独特の校風というか,よく言えば個性的ですが,世間的には少し風変わりなところがある学校なのでその流れかなとも思えますが,恰も交通標語のような「近づかない・触れない・話さない」が教員に周知している学園の「方針」だとすれば,「風変わり」とか,「独特」とか言ってられません。S君を無視するよう先生が生徒に指示したわけですから,これがクラス全体に広まることは火を見るより明らかです。校長先生は「『加害生徒』に指示しただけで,生徒全体に指示したわけではない。『加害』行為を防止する手段だ」と言い訳するかも知れません。
 いじめの方法は,最も分かりやすい(目立つ)「有形力の行使」(暴力・暴行の最もシンプルな法的表現です)だけでなく,いじめの現場では最も目立ちやすい(分かりやすい)この方法はむしろ少なく,「無視」という被害生徒を孤立させるのに最も強力な方法がいじめの実践として行われています。確かに,加害生徒が被害生徒に「近づかない,触れない,話さない」ようにすれば,当の生徒は「有形力の行使」はできなくなりますが,それは同時にもっと強力ないじめの発動を促しているということに考えが至らないのでしょうか。自森の先生方は,『自由の森』では世間では通用しない「独自の」考えが『自由』であることだと勘違いしているようです(洗脳されているのか,それとも,どこかで「違う」と思いながら仕方なく学校の「方針」に従っているかのどちらかです。「日大アメフト」を思い出しますね。)
 つまり,自森では,この強力かつ集団的な「いじめ」をあろうことか初動の「いじめ」に対する対応として教師全員に指示していることになります。これをされたら,S君がもう学校に行けなくなるのは当然です。
 S君の受けたいじめは,まだ初段階であり,「芽」のうちに摘み取ることは容易だったはずです。S君をいじめた生徒たちはまだ小学生の尻尾をつけた「いじめっ子」としてはひよこです。森田先生のいう「いじめ劇場」はまだできてません(恐らくまだ「観客」は一人もおらず,「傍観者」もまだ数名しかいないと思います)。
 担任教師と校長が「無視」するよう加害生徒に注意した結果,この加害生徒は既に犯した「罪」を免責されただけでなく,さらに別の方法でもっと重い「罪」を重ねることを許可されたのです。ここで注目すべきは,加害生徒に対する単発的な「有形力の行使」の禁止は,彼によるいじめ行為という「作為」の禁止と「不作為」の指示を意味しておりその限りでは間違っていない,しかし,同時に,この加害生徒を通じて生徒全員に「無視」という強力かつ大がかりないじめの「作為」を指示したことを意味します。つまり,学校の方針どおりに対応した担任は,S君の不登校を協力に後押ししたことに他ならないのです。こんなことを目の前で言われたS君は学校に行けなくなるのは当然ですから。担任教師と校長の行為がなければ,S君は不登校の意思を固めることはなく,欠席しつつも何らかの手を打てたかも知れなかったのに,その道を閉ざしたのは校長とその方針に従った教師たちです。
 そもそも,この「近づかない・触れない・話さない」といういじめ対応標語は,「いじめ」という社会現象の認識を「自森」という社会から放擲する効果をもたらします。なぜなら,この標語は,「集団からの孤立化」といういじめの手段と実態の両者を示す言葉と言えるのであり,「いじめ」という概念に近いものだからです。中井(後記)が示すいじめの3段階「孤立化」「無力化」「透明化(見えなくする)」の全てに繋がるのが「無視(シカト)」です。(前2者は説明を要しないとして)無視という社会学的な視点での「作為」は,現実の行動としては「不作為」で誰も誰かに何もしていないので,「見えにくい」というより「見えない」ということです。つまり,自森では,いじめがあってもないことになり,その意味では,学校の管理上,これほど楽なことはありません。世間で大きな社会問題になっている「いじめ」は,自森には概念上,存在しないのだから。「自由の森」は,学校という施設内で設営される弱肉強食のジャングルでしょうか(なんかサファリパークと似てますが,あそこは食わないように分けてますね)。
 自森の校長初め先生方は,自分がある集団でこれをされたらどんな気持ちになるかを想像することができないようです(勿論,いじめられた経験はないでしょう)。あるアメリカ?の大学で「看守と囚人」の模擬実験したら本当に看守役は傲慢になり囚人は卑屈になるという結果が出たそうです。車椅子体験のいうこともよくやってますね。一度,自森の教師全員(校長,教頭も含めて)である程度長時間に或る人一人だけを「近づかない・触れない・話さない」の模擬実験をやったらどうでしょうか(丸一日でも効果があると思います,ただし,自森内でなく合宿所でないと効果がないですが)。もっとも,「近づかない・触れない・話さない」の指示は,私がこの講義をした以上は,無効化しているはずなので(校長も聞いているから)先生方は実行しないと思いますが(ダメですよ。もう,やっちゃあ)。
 それだけ,現在の(はっきり言って過去は分かりません)自森は,重症です。「自由の森」という名前が背負っているものは,エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」で言っている「自由」と同質です。両者に共通する「自由」の責務を放棄した者の悲惨な末路は当時の日本の盟友ドイツにおいて示されました。
 私は,危機に瀕した自森の起死回生の起爆剤になることを祈って,講義を行い,そして,このブログを発表しています。
 私は,この講義では,森田洋司(社会学),菅野盾樹(哲学),中井久夫(精神医学)という非常に優れた学究らの手による著作を基礎とし要(かなめ)としました。森田は,生徒全員が構成する「いじめ劇場」という比喩的表現でいじめの実態と構造を解明して,その本質を見事に看破しました。菅野は,森田の4層構造モデルに,忘れてはならない「立役者」として教師の3類型を指摘することにより,このいじめ劇場モデルを完成させています。
 菅野は,直接自らいじめに荷担する教師の類型のほか,(いじめを)「裁可する教師」と「保全する教師」の役割を「いじめ劇場」に加えています。
 自森教員は,学校ぐるみで「(いじめを)裁可」していると言えそうです。しかも,方針という形でその「裁可」は学校単位で公的に認可されています。でも,彼らがS君にしたことは,生徒によるいじめを「裁可」したというより,担任教師らは,直接,具体的ないじめ行為を「指示」したという感じです。菅野は,教師による不用意な発言や行動が生徒たちによる具体的ないじめ行為へと具現化していく場合を想定して「裁可」と表現していますが,このケースは学校自体が第1の「いじめる教師」となってしまっている感じがします。しかし,そうは言っても,やはり,恐らくこの学校で理事会から圧倒的な権限を与えられている校長の指示があってのことで,教師らは校長の方針に従うしかなかったかも知れません。
 これと似たことが刑法学にあります。例えば,犯罪行為を指示した指導者は文字どおり有罪で罪を問われますが,状況的に(或いは境遇的に)指示に従わざるを得なかった部下は責任を問われない可能性があります(これを刑法学では「『適法行為の期待可能性』がないので責任を阻却される」と言います)。その意味で最近話題の日大アメフトの監督とコーチは間違いなく有罪だけど(ざまあみろ),犯則選手は免責(或いは罪を軽減)される可能性があるのです。
 こうして,S君は,4月12日の初日からいきなり後ろから叩かれたのを皮切りに,翌日以降も全身を触られる等の嫌がらせを受け,4月20日にはブランコに乗るよう誘いかけた上で,思い切り強く揺らして落とすという陰湿ないじめを受けるに至り,翌週開けの23日から欠席が続いています。その間,学校側の差別的とも取れる不親切な対応に加えて,校長先生に20日のブランコ事件を親子共に訴えたにも拘わらず,「二人の(加害者と被害者)話がかみ合わないので」という理由で取り合わなかったことが決定打となって(ここでも校長は大きな罪を犯しましたが,ここでは触れません,講義で詳しく話してます),S君母子の信頼喪失が深まって23日以来の「欠席」は,「不登校」の様相を濃くしている毎日です。
 その後,毎日律儀に行う母親の欠席連絡に対し,校長による「長期戦になりますかね」という呑気な返答,そして,校長の不遜な態度に業を煮やした母親に対する「学校に来なければ始まらない」との言葉に母親の怒りが沸騰点に達したことは言うまでもありません(電話に出る事務員の「木で鼻を括った」態度も改めた方が宜しい,彼らの世間離れした勤務態度もこの際改善しましょう)。
 さて,沸々と不信感,怒りを募らせていくS君母と,一方,呑気と傲岸が入り交じった校長との不協和音を背景に刻々と緊張した日々が過ぎていく一方で,S君自身の教師,学校への不信感もまた強くなっていきます。自森校長の態度は何かコミカルな感じがするくらい脳天気で,ある意味最強とも思うほどですが,対照的に,S君側は極めて深刻で,S君が教師や学校に止まらず,僅かに残していたであろう,大人全体,社会そのものに対する信頼を丸ごとなくしてしまいかねない危機感を私自身も感じないではいられませんでした。
 このような場合ほど,弁護士の無力を実感することはありません。他の分野のいじめ的事件(DV,セクハラ,パワハラ等)では刑事告訴や民事裁判を射程に入れて内容証明郵便をぶつけることで解決する例もあり,弁護士,裁判所という司法手続が被害者救済に有効に働きますが,学校のいじめ事件は,弁護士が介入しても解決には繋がらず,むしろ余計に火種を大きくする結果になりかねません。このように弁護士が力を発揮できないというのは,ある意味,いじめ問題の難しさの表れと言えます(中井氏が「無法地帯」「治外法権」という所以はここにあります)。
 具体的な経緯は敢えて記しませんが,こうした展開があって今回の講義が実現しました。と言っても,この「展開」からどうして私が自森の教員全員に講義をすることになるのかわけが分からないはずです(「抗議」ならまだ分かるけどね)。私のような権力に対して非常に攻撃的な弁護士を中に引き込んでいいことがないのは分かるはずですから。このあたりが,やはり,「自森」が「自森」である理由なんでしょうね。これを書いている時点で私もまだ分かりません。何と言っても,私は,おもしくない日本の中にあって,自森はおもしろい学校であり,この「おもしろさ」は,何か新しいいいことをしようと思うと,大変,大切であると思っています。そういう意味で,私がどこへ行くのか分からないこの学校が好きであることもまた間違いありません。
 さて,抗議(間違えた「講義」です)の話に戻ります。この講義が3人の優れた学究の功績を基礎にしていることは先に述べました。社会学・哲学・精神医学という学問領域を異にする3人の学者が異なる専門分野から,しかもそれを越えた非常に広い視野に立って深い洞察を行っています。その結果,違う窓口から入っているのに最終的な到達点が同じになっていることは大変示唆的です。それは彼らの洞察と論考が普遍的であることの証しです。
 私は,第1に,心情的にもいじめ被害者に非常に近い当事者的な立場にいます(私事に属するのでここでは触れません)。第2に,社会関係や人間関係において生じた紛争の解決を職業とする法律家であり,しかも,第3に,DV事件,医療過誤,低周波音公害事件といういじめ構造(圧倒的な強弱関係にある当事者という意味で)に近い当事者を仕事を専門としている,さらに第4に,精神的疾患や障害を負った依頼者が多い故に自然とカウンセリング的な素養を自然と培うと共に河合隼雄(日本初のユング派心理分析家)から学んだという4点において,この講義は格別の意義をもっていると自負しています。
 さて,講義に対する自負は私が満足していればいい話で,それを敢えてブログで自慢する必要はなく私にはそんな趣味はありません。では,なぜ,私はブログに講義の内容を添付してまでメッセージを公開しようとしたのでしょうか。
 このブログの目的は,まず,自森の在校生,その保護者,そして,その卒業生,さらにその保護者,何らかの理由で自森に関心を持つ人々など,さらに,小中高等学校でいじめにあっている生徒,その保護者にいじめの実態とその構造を知ってもらうことです。さらにその先には,いじめを受けている生徒の周りの同級生たち全員に,このリアルな「いじめ劇場」のモデルが現実に存在していることを,実証的かつ実感的に認識してもらうことであり,実は,これこそが真の目的です。そうして最終的には? もう言うまでもありませんね。あなたたち「観衆」と「傍観者」の中から「仲裁者」を輩出することです。どうしても私は,自森でそれを実現してほしいと思っているのです。日本の先駆けとして,自森でこそ仲裁者を出してほしい,目に見える形でそれをしてほしいと心から願っています。広い日本の学校の中では,既に,森田論文を実践した学級や生徒がいるかも知れませんが自森こそがお手本を示してほしいのです。それが『自由の森』に相応しいと思うからです。
 もし,一人では難しかったら,何人か同志を募るのもいいかも知れません(「仲裁者団」ですね)。まずは,クラスの中で,一人でも何人でもいいから仲裁者になって下さい。結成前にばれたら被害者になってしまうので当初は「秘密結社」ですね。万一バレても大丈夫なようになるべく大人数のほうが安全かもしれませんが,一人でもやってほしい。でも,観衆と傍観者は主体性がない「烏合の衆」なので「仲裁」の意思が確固たるものであれば2,3人でも,例え一人でも負けませんよ。この一人になる勇気がある人は,将来,どんな分野でもひとかどの人物になります,社会や歴史に小さくとも一つの実績を残すことができる人に必ずなります(逆は,逆です,つまり,この勇気なくしてできることは知れてます,大したことはできやしません,先に言った芸能人たちは,別に,自森じゃなくても,堀越学園でも普通の公立でも彼らの力でそうなっていますから,心配いりません,つまり,彼らの成功は自森とは無関係ですから)。
 目の前のいじめが解消したら,仲裁者の「仕事」は終わり。正義の味方は,スーパーマンも,スパイダーマンも,普段はさえないサラリーマンだったりして危機にしか姿を見せませんよね。助けたら去って行きます,かっこよく。「どんなもんだい」っていつまでもいません。そういうものです。結局,彼らは「強者」ですから,定着,固定化,継続すると,権力になり,いじめっ子になりかねません。例えば,「仲裁者団」が学年横断的に監視活動をし始めたら,それはナチスの親衛隊や特高警察と似ていきます。「仲裁者」が出現する土壌には,いじめの芽は出にくくなるので,いつもいなくていいんです。
 「仲裁者は何をしたらいいんですか?」には,多分,答えはいらないでしょう。森田氏は,仲裁者の出現比率と傍観者層の数的比率は,反比例すると言ってます(さらに「劇場」では傍観者が最も重要な役割で,彼らがいないと劇場は成り立たないと)。つまり,仲裁者が現れれば,必然的に傍観者が減っていなくなるので,自動的に観衆もいなくなって,「いじめ劇場」はかすみの如く消えてしまいます。
 彼は,「傍観者が冷ややかな反応を示せばいじめを抑止する存在となる。見て見ぬふりをする背景には,他者の抱えている問題への無関心さ,自分が被害者になることへの恐れ,優勢な力に対する従順さ,集団への同調志向などが横たわっており・・傍観者的な態度は,かえっていじめている子どもを支持する存在となる」と鋭い指摘をします。
 また,菅野氏は,「いじめ克服の第1歩は,いじめを白日の下にさらすことである」と言っています。仲裁者の仕事は,勿論,加害者に直接「止めなさい」と言うのもそうですが,要は,いじめる加害者及びいじめ行為を「白日の下にさらす」ことなんだと思います。例えば,「加害者がいじめ行為をしている」とオープンに発現して,しかも,それが何らかの形で封殺されない状況が「仲裁者」の出現であり,「仲裁」をしているのです。誰かがいじめを注意して,注意した人がいじめのターゲットになってしまったら,その人は「仲裁者」ではないし,「仲裁」をしていません。だからこそ,森田が言う「仲裁者」の出現は深刻な社会問題であるいじめの克服の鍵を握っているのです。現場の状況が酷く悪ければ,それは夢物語で奇跡的ですが,状況いかんによっては結構現実的でそれほど難しいことではないかもしれません。
 「先生方やPTAはどうしたらいいんですか」と質問されそうですね。基本的にはこの人たちは邪魔さえしなければオッケーです。むしろ,余計なことをしないでいてくれたら大変有り難い。特に,教師は基本的にいじめを「保全」する立場にいらっしゃるので何かするのは基本的にダメなんです。でも,私は「観衆と傍観者である生徒の中から仲裁者が現れるのを邪魔するな」と言っているので,理屈ではそうでなければいいのだけれど,結局,何かすれば,折角,出てきた「仲裁者」誕生の芽を摘みかねないので(多分,無意識に),見守るのが最善です。どうしても何かやりたいというなら,先生方には,仲裁者の「応援団」でも結成して貰ってのろしでも上げて貰いましょうか。先生たちがさわやかなグリーンの旗(「仲裁者ガンバレ!負けるな!」と書いて)でも掲げてグランドを練り歩くのもいいですね。さすがにこれは冗談ですが,言いたいことは本心ですので別にふざけてるわけではありませんよ。それでも「いやいや,そんなわけにはいかない,なんかしないと」という先生は,講義レジュメの最後のあたりを読んでよく考えて行動して下さい。
 生徒たちの指導者・監督者である教師に何もするな,という逆説的表現は,森田,菅野,中井の3氏の提言に拠っています。彼らの著作を読めば分かるはずです。教師は,宿命的に「応援団」的立場になるしかないんですね(菅野的に言うと,いじめを「裁可」したり,「保全」したりしなければ,自ずといじめ劇場は作りにくくなります)。
 私は,自森で行ったいじめ講義を皮切りに,そこかしこにある(というより,病原菌のようにはびこる)「いじめ劇場」に対抗する「『いじめ劇場』撲滅劇場」を演出して,この劇を日本全国に広げていきたいと思っています。「治外法権」「無法地帯」(中井)であるクラスにいじめっ子が「いじめ劇場」という虚構を構築したように,これに対応するにも「劇」を演じて見せる必要があるのです。「劇」を演じもしないで,一部の教育関係者のように,「いじめは恥ずかしいことだから止めましょう」とか,「子どもは本来美しい心を持っているのだからそれを育てましょう」とか綺麗ごとを言っても役に立ちゃあしません(そんな無駄か有害な本が図書館や書店に溢れてますが,賢明なる被害者の皆さんは読まないで下さいね)。
 森田,中井,菅野の論考は,子どもが学校で現実に行う陰湿,悪辣,狡猾,残虐な集団的行為を見事に暴いてくれました。我々は,これらを礎にして,次のステージに進まねばなりません。現在,自然発生的に日本全国に蔓延している「いじめ劇場」を解体するための「劇」を演出しましょう。このブログはその「プロローグ」なのです。
 私は,ネット上でのやり取りはしてませんが,このブログは公明正大に発表していますので,応援なり,支持なりのコメントは正直ありがたく思います(手紙でも,メールでも何でも結構です)。批判はそもそも受ける筋合いにありませんし,迷惑なので止めて下さいね(そんな度胸のある人はいないと思いますが)。
 自森の関係者,非関係者問いません。もし,このブログに賛同して頂けるのであれば,どんな形でも構いません。是非,アクションをお願いします。この問題は,過去,未来を問わず,同時進行で各地の各学校で被害者が存在している問題なのです(このブログを書いている最中にもいじめ自殺事件の報道がありました)。
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