小学校で体育教師が体罰~軍国主義時代の名残が今も学校現場に

2019年4月25日

~群馬県K市内の某小学校で起きた体罰事件につきK市市長と加害教員を相手取って裁判提起しました~
 平成30年8月,群馬県K市内の小学校で2年生の男子児童の頬が体育教師に平手でパーンと叩かれるという世の親たちが聞いたら身の毛もよだつ事件がありました。
 還暦を過ぎた私の小学校時代なら日常茶飯事(言い過ぎか?)でしたが,私が小学1年の時期を過ごした神戸では,まだ近所に空襲で焼け落ちたままのビルの廃墟がありましたし,傷痍軍人が町中で歩き人々に金銭を乞う姿が見られました。ちょっとした悪さを咎められて授業中に教師にビンタされる場面はたまにありました。戦時を引きずっていた当時は社会的にほとんど問題視されませんでした。しかし,子供の心は純真で,しかも,戦時教育を受けていないため洗脳もされていませんから,私自身は,何か釈然としないものがあり,時には,怒りさえ覚えました。私が中学校に進学するとき,男子は全員,散髪屋で丸坊主にされて卒業と同時に髪の毛を普通に伸ばせるようになりました。今思うと,なぜ,あんなことが許されていたのか不思議ですが,軍国主義の名残としか言いようがありません。そう言えば,明治維新後に整備された学校制度自体(部活も重要な要素)が富国強兵の必須手段でした。軍隊的規律が日本の経済発展と武力を背景とした国際進出に大いに役立ちました(恐らく,将来同盟を結ぶことになるドイツあたりがお手本)。
 さて,事件の概要ですが,この男子児童は掃除の時間に校長室前の廊下で体育教師Sのお腹をほうきの先でチョンチョンと突っつく悪ふざけをしました。当然,S教師は注意しますが,それでも悪戯を止めない児童に,本気で怒り,ビンタをしたという出来事です。S教師の行為は,学校教育法11条が禁止する「体罰」の典型例であり,教育的措置としての「懲戒」として許されるかを検討するまでもなく,刑法上の暴行罪か傷害罪にあたり,外の「社会」であれば刑事罰と民事上の賠償責任は免れません。これが家庭内で恒常化すれば最近問題になっている「虐待」です。この「密室」かつ「治外法権」区域である学校で起きる歴史的社会的問題が「いじめ」ですが,体罰も「いじめ」概念に包摂されます。そうです。この体罰事件は,「いじめ」の一つとして考えなければなりません。生徒集団でなく,その集団の権力者である教師による「いじめ」が体罰なのです。
 この体罰事件が発覚した切っ掛けは,児童が母親に寝物語りに,「俺は大人になったら教師になる」と思いがけない発言をしたことにびっくりした母親が「えっどうして」と聞いたら,「だって,教師になったら生徒をぶてるもん」と児童が答えました。そこで,問いただしたら出てきたのがこの体罰事件です。
 児童の両親はいじめ問題のブログを読んで相談に訪れました。そして,気持ちを一つにした両親と私は次々とそれぞれの立場で抗戦に出ました。両親は担任教員やPTAを通じて少しずつ外堀を固め,弁護士の私は市長と学校長に通知書を突きつけました。5回にわたる通知・回答の応酬を経て提訴というステージに進んだ訳ですが,「交渉経緯」というには,余りに「ふざけてる」としか言いようがない回答を繰り返す「茶番劇」でした。当方は真正面から正論を突きつける態度を崩しません。チョコマカと逃げ続ける学校長を追い詰めきった所で最後通告をして提訴となりました。  
 裁判所に提出する訴状完成後,このブログを書いていますが,その最中に,学校長から回答が来ました。改めて,「体罰はなかった」と開き直り直した回答がありました(多分,最後通告を受けて抵抗を諦めたのでしょう。「もうダメだ。開き直るしかない」)。その一番の理由は,加害教師自身が,指導の過程でたまたま手のひらが児童の頬にあたってしまった。叩こうという意識はなかった」というものです(ここへ来てそう来るかという感じの見事な開き直りです)。DV事件で原告がする暴力場面の主張に対して,必ずと言っていいほど被告から出てくる反論が「夫婦喧嘩をしてもみ合っていて足や手があたってしまった」というものであり,全くそれと一緒です。「児童を指導していて手のひらが児童のほっぺにあたってしまった」って一体どんな状況でしょうか?もしこれを再現しようとしたら,殆どコントだと思いますけどね(体格のよい体育教師が小学2年の男子にほうきの先でお腹をチョンチョン突っつかれて,それを「止めなさい」と言って注意しながら,それでも悪戯を止めない児童と立ち回りをしながら,ついに児童のほっぺたに教師の手のひらが当たってしまうシーンを想像してみて下さい。結構笑えますよ)。  
 最初の通知に対して,「体罰はなかったと認識している」というのが学校長の最初の回答で安易にも結論を示してしまいました。被害者児童側の話を全く聞かないで,加害教師と他の大勢の教師に「体罰があったか」を聞くという馬鹿げた調査を行い,勿論,聴き取りで当の教師は否定し,他の教師は全員「見ていない」と答えました。学校長が「体罰はなかった」と答える素地が揃った訳です。加害者本人は否定しているし,他の教師は全員「見ていない」と答えているから,「体罰はなかったと認識している」と答えた訳です。「なるほど筋は通っています」って?んなわけないでしょ。この辺の学校側の問題については既に別のブログに書いたので省略します。その後の学校長の「はぐらかし戦法」はある意味徹底していて潔いとすら言えます(凄く恥知らずですけど)。一つだけ例をあげます。学校長は,「被害者側の話を聞かずに加害者側だけの証言で結論を出すのは不公正だ」との批判に対し,「聴き取りが児童に与える心理的負担を考え,児童に負担をかけたくないと配慮してのこと」と答えました。どうですか。よく恥ずかしくなくこんなことが書けると感心しませんか。このブログをアップした理由は,この恥知らずな学校長の態度を世に知らしめるためです。
 このような「事なかれ主義」,自分のことしか考えないエゴイズムが今の日本に蔓延しています。いじめ事件,虐待事件,DV・ストーカー事件など,本人が正しくSOSを出しており,それを受け止めてさえいれば事前に防げたのにむざむざ犠牲を出してしまった事例が後を絶ちません。父親に虐待を受けて殺されてしまった子供は何度も学校や児童相談所にSOSを出したのに,彼らは,父親に絶対出してはいけない情報を提供し,子供を父親に差し出し,その結果,子供は父親に折檻されて死んでしまいました。繰り返し報道され,あの無能な総理大臣でさえ,具体的な取り組みを始めました。しかし,当の児相の担当者が何らかの処分を受けたという話は聞きません。「懲戒解雇せよ」とは言いませんが,自らの行動が子供の死を招いたことに「お咎め」はあってしかるべきです。単なる通行人が見過ごしたのではありません。税金で給料を貰っている公務員の職務として簡単にできることをしなかったことに「お咎め」を受けるべきだと私は言っています。このような悪しき「集団主義」がはびこる無責任な社会はいじめや虐待の温床です。
 
 この体罰教師は,どこかに「とばされた」そうです。両親と私のアクションの結果だとすれば,一つの「成果」ですが,それだけで済ますわけにはいきません。この体罰教師の悪行は,誰も声を上げる人はいなかったけれど,情報はあちらこちらに潜伏していて,今回の事件が切っ掛けで明るみに出てきました。叩けば,出るわ出るわ,ホコリが。ある意味での「権力」をもつこの教師は,ある意味でこの小学校という現場を支配していた構図が見えてきました。この権力は公的な正式な地位に基づくものではなく,その地位をもった校長・教頭(連座で飛ばされた?)の公認を背景として,行使する暴力(誇示するだけで現実には実行しません)や嫌がらせが権力資源です。勿論,父母や同僚教員に対するものですから,余り目立つことはしませんが,この学校の空気を相当悪いものにしていたことは間違いないようです。この児童は,掃除中に掃除をしないでふざけていたことが切っ掛けで学校を「掃除」したことになります。褒めてあげていいのではないかと本気で思います。この生徒と直接会って話をしていないので何とも言えませんが,実は,深い深層心理において,彼はこの教師に対して何らかの問題意識を持っていて,それが「ほうきでお腹をでチョン」という行動をさせたのではないかと。なぜなら,この体育教師は生徒だけでなく父母や同僚教員からも恐れられる(或いは,嫌われている)存在であり,彼がそのような悪戯をする対象としては相応しくなく,そんな相手に敢えて「お腹ちょん」をするのはある意味,勇気の要る行動ではなかったかと思えてなりません(子供も含めて報復を考えない人はいないのではないか)。彼を現場から排除する結果になっていますし(ありがちな「臭いものに蓋」的措置ですが),この教師に対してもこれまでの振る舞いに萎縮効果を与えることは間違いないから,本来はマイナス評価を受ける彼の行動は,全体の流れでみたら,或いは,マクロ的に見て,決してマイナス評価だけが正しいわけではないと(大ぴらに褒めることは憚られますが)。つまり,弱い立場の一児童にできることはこの悪ふざけしかなく,それこそが唯一の抗議行動ではなかったのではないかとこの話を聞いた時直感的に思いましたし,その直感は今も変わりません。
 裁判所は,基本的に保守的であり,必ずしも,「弱い者の味方」,或いは,「正義の味方」ではありません。時には,「強いもの」,或いは,「権力」の味方をする結果となる判決がしばしば出されます。このことを我々法律家は,一般的な「真実」と司法的「真実」は別である,と言います。もっともらしい表現ですが,要するに,「正義」や「公平」の評価自体が価値観によって異なるので,裁判所が「正義」「公平」と考えるものが「正義」であり,「公平」である,ということなのです。何か,権力の匂いがしてきましたね。こう言うと,まるで,裁判所が「権力」の手先のように聞こえてしまいますが,決してそうではありません。私がそう思っていたら,もう,弁護士なんかやってられません。いくら「食べる」ためでも。『司法の威信を回復した名判決』と謳われる昭和46年新潟地裁判決が金字塔のように今も輝き続けています。この判決文は,私が担当する裁判で伝家の宝刀としていつも引用しています。だから,裁判所が正義を実現してくれると信じての提訴です。
 参考までに,訴状を添付します。今後の動向を見守って頂ければ幸いです。
訴状

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